号外!!
ついにあのOP名シーンが解明か!
第15作 男はつらいよ
1975年8月2日封切り
物語の勝利. ― 渡り鳥たちの栄光 ―
神様の気まぐれ
山田監督の映画に限らず、人が人生をかけて何かを制作する場合、時として傑作が生まれる。
しかし傑作と呼ばれるものにもいろいろな種類がある。
まず、作者のもっとも言いたいことが最初に出たみずみずしい処女作の良さを伴う大傑作。これが第1作「男はつらいよ」である。
その次に、さらにテーマを深く掘り下げた力強い重量感がある力作とよんでいい大傑作。これが第8作「寅次郎恋歌」であろう。
そして、この2つはおおよそどの作家にも人生で1度は与えられているものである。しかし、いくら脚本や監督やスタッフがよくても
実際に演じるのは役者さんである。役者さんがその役に「出会う」ことがなければ、真に一流の作品は出来ないのだとも思う。
特にこのシリーズの場合は「マドンナ」の魅力が大きな比重を占める。
そして、神様は時として気まぐれ的に、ふっと、脚本、演出、スタッフ、キャストなど全てのタイミングを合わされるときがある。
監督やスタッフの人生での高揚の時期、出演者たちの人生での高揚の時期、それらが見事に一致する時がごくまれにある。
これは人生の中で全ての作家に必ず与えられるものでもなく、残念ながら意識的な努力でなんとかなるものでもない。
そういうときの作品は、傑作絵画のようにリズム感、テンポが抜群で、人物たちがその中で見事に自分の色を輝かせて、
しかもお互いの色が闘うことなく響きあい、すばらしいハーモニーを作り上げている。タイミングの偶然が重なり合うということは
確かにあるのだ。ある日「ポン」とこの地上に生まれ出る。そんな感覚。一気に出来る。そして、そのレベルでの2作品目はなかなか難しい。
その作品こそが「寅次郎相合い傘」だ。
たとえば私の感覚的には黒澤明の「七人の侍」小津安二郎の「東京物語」、新藤兼人の「裸の島」、野村芳太郎の「砂の器」、などが浮かぶ。
重なる4人の絶頂期
おそらく山田洋次監督の中で言えば「幸福の黄色いハンカチ」になるのだろうが、山田監督には実はもうひとつ「別枠」があるのだ。それが
「男はつらいよ」シリーズである。2種類の違った種類の映画たちをほぼ同時にどちらも同じ比重で、同じ気持ちで!作ることが出来ると言う
類まれな、ある意味変わった才能の持ち主である山田監督は、それゆえにこの「男はつらいよ」シリーズの中でも神様の気まぐれに遭遇し、
「寅次郎相合い傘」を生み出したのである。なんとも幸福な方だ。
ちなみに、この「相合い傘」が1975年封切り。「幸福の黄色いハンカチ」が1977年封切りである。
全てはタイミングの妙だ。「寅次郎相合い傘」はそのような奇跡の作品。このような作品には穴がほとんどない。最初から最後まで一気に
観させるテンポと軽やかさ、そして背後に流れる豊穣な叙情感。本当の傑作は「重々しくない」といのが私の持論だ。実に柔らかい
ふくよかな味わいがある。絵画も同じである。いわゆる力作というのは結構重々しいが、本当の傑作は「軽快なハーモニー」とでも
言うべきものが絵の隅々にまで溢れ、全てのカットに無駄な動きやギクシャクしたものがなく、観る者を優しく包んでくれるのである。
名作「忘れな草」を作り終えた山田監督は、浅丘ルリ子の水を得た魚のごとき最高の演技を見て、このリリーというキャラクターを
もっと生き生きしたものに、もっと人間として成長させて掘り下げたものにできる、と確信し、続編を書き始める。
アイデアはどんどん湧き出てくる。山田洋次44歳.
そしてこの頃、偶然にもちょうど渥美清、倍賞千恵子、浅丘ルリ子の人生の高揚期が訪れてくるのである。役者は年齢を重ねれば、
それはそれでその年齢しか出せない味が出てくるものだ。笠さんを見ているとそのことが良く分かる。しかし、それとは
別にやはりその役者のパワーが最も外に向けて発せられる高揚期というものはあるのだとも思う。
渥美清47歳.倍賞千恵子34歳.浅丘ルリ子35歳.
この作品は寅とリリーと同じくらいさくらが素晴らしい。倍賞さんが、このシリーズ中で最も生き生きとした表情でスクリーンの
なかで華やいでいた。内面の充実が、絶妙な演出とともに見事に光を放っていた。
そういうわけで、最初から最期まで作者側の「説明的な意図」というものを感じさせないで観終えることができる。
映画でしか味わえないエンターテイメント。ダイナミックな空間の広がり。軽妙なテンポ。それらが見事に決まっていた。
最高のオープニング.
すでに出だしから感覚が冴え渡っている。まず、ドラの音、そのあとの凝りに凝った夢の演出。このシリーズ最高の活劇「海賊タイガー」。
そして海賊映画が終わった時にとある映画館で寅は目が覚めるのである。
そのロケ撮影された映画館が今年の6月まで、
何十年もまったく皆目見当もつかなかったのだが
北の旅 海 藍色に 夏盛り
■プロローグ
この発見は2017年6月1日
私のサイトをいつもごらん下さっている「男はつらいよ」ファンの
八戸のY.Eさんからのメールで始まった。
Y.Eさんのメールはこのようなものだった。↓ (個人情報としてさしさわりのないところだけを書きました)
寅さん第15作「寅次郎相合傘」の最初に、寅さんが映画館で居眠りをしている場面がありますが、
この映画館は青森市にあったスバル座です。
青森市の合浦(がっぽ)公園の近くにあり、国道4号線のすぐそばにありました。
取り壊しになってからかなり経ちますが、この辺りでは有名な映画館でした。
私も高校生時代(昭和44年4月〜昭和47年3月)にお世話になった映画館でしたが、
昭和50年あたりに封切になったこの映画を、大学生活を送っていた九州で見てびっくりしました。
自分が高校時代に通っていた映画館で寅さんが眠っている場面があり、また、
寅さんが映画館を出ていくときに映画館のおばちゃんが映画の画面に出てきたからです。以上です。
青森市のスバル座に間違いありません。
青森県八戸市 Y.E
もぎりのおばちゃんは
上記の八戸のY.Eさんのメールによると本当に当時スバル座で働いていたおばちゃんだそうだ。
YEさんのメールに驚き、お礼と質問を送信すると同時に
展覧会で多忙ではあったが、Y・Eさんの情報を実際のものとして確証まで到達するために
そのあと私は独自に青森の方数人にコンタクトを取り始めた。
みなさん寅さんの映画がスバル座で行われたことはまったくご存じなかったが
スバル座自体のことや隣のスケート場のことは覚えていらっしゃった。
青森の郷土史に詳しい元郷土資料館の学芸員であり
郷土史の第一人者の相馬信吉さんの証言をメールで伺ったり、
今も残る名画座のご主人にお電話したり、
青森観光協会の方の証言をメールで得たり、現地栄町2丁目の方に電話をかけたりして
スバル座のいろいろ情報が集まって来た。
相馬さんは『「奏海─かなみ─」青森まちかど歴史の庵』をお仲間と複数で主宰されている。
そして、2017年 6月3日ごろ
青森県立図書館のスタッフさんたちが私の要望に応えて
一生懸命探してくださった『青森シネマパラダイス』という書籍の中に
この男はつらいよのロケのことも少しだが記述されていたのだ。
早速私は、通販でなんとかこの本を探し一週間後に手に入れた。
この凄い発見は青森県立図書館の郷土史担当のスタッフさんたちの大きな功績だ。
八戸のY・Eさんと青森県立図書館のスタッフさんたち感謝です!
内容はこうである↓
『寅さんの足取りは、八戸市を経て、青森市に入り、
同市栄町に当時あった映画館「スバル座」で海賊ものの映画を観ながら
居眠りし、駅西口の旅館で一泊。翌日は善知鳥神社で「啖呵バイ」で暦を売って稼ぎ
もう一泊。翌日、八戸で知り合っていた連れの謙次郎とともに青函連絡船で
函館へ渡る。」と記述がある。
左は善知鳥神社でのロケ撮影。私も2年前に現地で取材。
この書籍での記述も、Y.Eさんの証言と同じくらい大きな決め手になった。
特に青森の東奥羽日報社の出版なので地元の方々への取材も丁寧で
信用性はきわめて高いと思われる。
この時点でほぼ確実になって来たわけだが・・・
実は過去に苦い経験がいくつもあり、
書籍を鵜呑みにするわけにもいかないのだ。
書籍もインターネットのサイトもやはり間違いはある。
書籍は比較的間違いは少ないがそれでもムック本などはよく間違っている。
そして数日経って
2017年6月6日ごろで現地のツィッターなどでは
早くもかつて寅さんの映画撮影が栄町の『スバル座』で行われたらしいと
キャプチャー画像つきでざわざわ書き始めて来た。
本当は現地での聞き込み調査で最終決定したいところだが・・・
おそらく私が6月3日に相馬信吉さんらに書いたメールの内容などから情報を聞かれた
相馬さんと同じグループの地元のツイッターの方々が身近な場所でのロケ撮影事実に
嬉しく思われてつい書かれたのだろう。
ロケ地「確定」ではないのでお手つき気味でやや心配ではあるが
ほぼ間違いはないと思われるのでまあセーフかなとも思う。
相馬信吉さんのグループの知人である
栄町にご縁のある張山喜隆さんのイラストも相馬さんにメールで添付していただいた。
青森スバル座と高栄劇場 たぶん1950年代の記憶で描かれている。
上記のツィッターでも添付されていた。
「高栄劇場」は上記の東奥羽日報社記事や当時のいくつかの年の住宅地図検証などで、
昭和40年に閉館し、その館をスケートリンク、ボーリング場などの
『青森スポーツガーデン』というスポーツセンターに使っていたようだ。
『スケート』という文字の下半分が見えているようだ。
手前上映中の看板がある建物がスバル座
向こうが昭和25年から昭和40年まで営業していた元【高栄劇場】、
1975年の撮影時はすでに『青森スポーツガーデン』として
スケートリンク場、ボーリング場を経営していた。
スケート場の壁紙は個性的で覚えている地元の方がいるかもしれない・・・・
スバル座は中にも外にもある丸く太い柱が特徴的。細かいタイルが貼られている。
撮影(1975年)当時に近い1974年の住宅地図。 水色は寅が歩いて行った経路
青森スポーツガーデンでは スケート以外にもボーリングや洋弓があったようだ。↓
家々につけた小さな赤印は現在も同じ場所でお住まいの方々。
そして一番大事な栄町2丁目の風景
黄緑がスバル座 赤がスケートリンク(元 高栄劇場)
青は寅が歩いたであろう道。
撮影があった1975年の航空写真と映画のカット。家々の屋根の幅や色がほぼ一致する。
大きめにしてみた撮影当時の航空写真
現在の航空写真 今でも同じ家がいくつかは残っているのがわかる。
■映画カットその1
現在の同じ場所と映画のアングル ストリートビュー。何の面影も残っていない。
■映画カットその2
撮影カメラは東から西へ向いていた。西へ伸びる道。現在のストリートビュー
Y.Eさんによると、当時のスバル座は西側に入り口があり、上映されている客席は東へ伸びていたそうだ。
当時の航空写真で言うとこうなる↓黄緑点線は寅が出て行った経路。
現在はもちろんスバル座もスケート場もなく、住宅街になっている。
当時の住宅地図年代を追って調べていくと
スバル座は1984年ごろに閉館。スケート場(青森スポーツガーデン)は
それより2年ほど早い1982年頃に閉館。
当時と同じ家はほとんどない。 わずかに細い赤屋根の家など数軒が残っている。(濃いピンク丸他)
1軒だけ今も屋根が同じの二軒だけの細長い赤い屋根(平田さん宅)の家(ピンク丸)。
赤い屋根と隣の緑の屋根の関係は当時の航空写真でも確認できる。
今も残る 二階建ての平田さんの家。止まれの標識。
映画で映っていたスケートリンク場の入り口が航空写真でもかろうじて確認できる↓
もうほぼ78〜79パーセント確定ではあるが
私といつもの寅友のちびとらさんで
急遽青森市栄町の現場に最後の証言かもしくは写真を
探しに行くことになった。
この現場で今も住んでいらっしゃる方々にこのいくつかの映画のシーンをお見せして
確認していただければコンプリートである。
当時のスバル座か、もしくはスケートリンクの外観写真があれば100パーセントとなる。
今のところは大きな物証がなく、決定打としてはまだ弱いので78〜79パーセントの確率。
最後の通りの写真か建物の写真が欲しい!
最低でも当時の目の前に住んでいた地元の方でこの建物や柱や通りの風景を
しっかり覚えていらっしゃる方がいればこれでも100パーセントとなる。
映画「砂の器」で
亀田という言葉をヒントに今西刑事と吉村刑事が
東北を探しまくるが
空振りに終わる・・・・。
秋田県の【羽後亀田駅周辺】での捜査が空振りで、
東京へもどる車中、急行「鳥海」の食堂車で、
俳句が趣味の今西刑事が吉村刑事に
俳句を2句紹介するシーンがある。
「北の旅 海 藍色に 夏 盛り」
吉村「よく分かんないけど、これがいちばん良い感じですね。」
今西「そうか、・・・・・ぜいたくな旅行をさせてもらったよ。」
今の私の心境はあの今西刑事。
たった数分のオープニングのロケ地場所決定のために
青森まで新幹線を使って宿泊までしての調査。
まさにこんなぜいたくな旅はない。
亀田 は 栄町スバル座
亀田 は 栄町のスケート場
亀田 は あの栄町2丁目の通りの家々
いざ!青森市へ!!
6月17〜19日ごろ掲載予定の最終章へ続く!!
最終章
号外!!後編
ついに寅次郎相合い傘OP完全解明
最終章
第15作 男はつらいよ
1975年8月2日封切り
2017年6月15日 朝8時46分上野駅発 はやぶさ7号にて新青森へ
前回読んでいない人はここをクリック
超号外!!ついに発見か!!
「寅次郎相合い傘」OPロケ地完全解明への旅 まずは序曲から
新青森駅着
タクシーで青森駅前の予約したホテルへ。
まずはホテルに荷物を置いてすぐに現場に向かった。
青森市栄町2丁目7−19
映画の構図で10枚ほど撮影。
まずは映画の通り、右から映してゆく。
カメラはゆっくり、右から左にパンしていく。
最終的にはカメラは左へ。道のセンターはやや右よりで止まる。
曇り時々雨だが、なんとか曇りのまま普通の雨にならずにすんだ。
映画のカメラ位置でちびとらさんと記念撮影。
今も全く変わらない家の平田さんの家のブザーを押すが
どうも、もう引っ越されたのか、どなたも返事もない。
ストリートビューに存在した保険労務士の看板もなくなっていた。
2015年のストリートビューでは平田さんの家にはまだ保険労務士の看板が掛かっていた。
■すべてのインタビュー動画と画像は事前にご本人様にご許可を得ております。
まずは映画に出てくる風景で、42年間で家が変わらなかった数少ない平田さんの
道を挟んで真向かいに同じく昔から住んでいる藤田さんにお話を伺った。
平田さんの家を長年家を出て行くたびに見てたはずだからだ。
藤田さんは町会長をされているだけあって実に明晰にこの前の風景を
覚えていらっしゃった。
そしてスバル座のこともいろいろ覚えておられた。
ロケがあったことは覚えておられなかった。
現地に着いて約20分でほぼロケ地がこの場所だと確定した。
インタビュー動画:https://youtu.be/dviwF8OfaLg
次に、ちびとらさんが昨日電話であたりをつけてくださった今井理容店さんにインタビューした。
今井さんは、なんとスバル座のオープニングパーティに呼ばれて参加したり、
真向かいのあのスケート場(青森スポーツガーデン)に毎日スケートの練習に通ったことがあるとのこと。
毎日通ったと言うのは実にユニークだ。
今井さんは理髪師さんだがご覧のように店内に伊藤深水、藤田嗣治、棟方志功が
飾られていた。
インタビュー動画: https://youtu.be/51IdchW54pw
インタビュー動画 後半: https://youtu.be/7bGkyKdOZ8k
藤田 嗣治(ふじた つぐはる)のデッサンは良質
次に向かったのはちびとらさんが同じくあたりをつけていてくださった今井さんの家からすぐの扇野菓子処さん。
扇野ご夫妻はこの栄町の町会長さんをされている。
お二人ともスバル座やスケート場(その前の高栄劇場のことも)よく覚えていらっしゃいました。
インタビュー動画:https://youtu.be/FsX8v2cQH5k
みなさんどちらかというとスケート場以上にその前に昭和40年まであった高栄劇場のほうを
よく覚えていらっしゃった。
おそらく・・・私見だが、
【高栄劇場】の高は館主だった高橋さんの高、栄は栄町の栄 だったのかもしれない。
今井さんに紹介されて訪れた歯科医の畑中さん。
ちょうどお昼休み中だったのでインタビューを受け入れていただいた。
大の寅さんファンで、若き日新小岩でお住まいだった畑中さんは、ご自分の年賀状に高木屋さんの
店先でのスナップを使われたり、ご自分のお子さんの誕生祝を川甚さんで開かれたりと
本当にこの映画シリーズがお好きなようだった。正月と夏には必ず映画館で男はつらいよを観て来た
そうだ。ご縁ですね〜〜〜〜。
インタビュー動画: https://youtu.be/9-WaMROhnt8
旧高栄劇場撮影時のスケート場のちょうど前にお住まいだった太田酒店さんの奥様にも
当時の目の前の空き地についてお伺いしました。
インタビュー動画:https://youtu.be/DxSM4pmru-o
動画で太田さんが語られているのは紫の囲み部分(1976年住宅地図)
もう一度…映画本編のカメラアングル
もう少しアップにしてみる。
細長い二階建ての「平田さん」は今も同じ建物。
夕方になって図書館での検索に入った。
ちびとらさんは私に先立って2時間ほど前から資料室で当時の新聞を捜されていた。
ホテルの横にある青森市市民図書館には国立国会図書館デジタルコレクションからの複写で
東奥日報の新聞記事のマイクロフィルムが戦後からずっと遡って残されていた。
私は実は6月初旬にすでに東京で青森の県立図書館で1975年住宅地図と
当時の青森市の映画館の写真の記載、
1975年6〜7月の過去の新聞の調査(予約)の3つを頼んでいて、
図書館側からは1975年の住宅地図は送られて来たが、
何日か前のメールに、
「写真や新聞記事はすぐに探しきるのはなかなか難しいです、もう少しお待ちください」と言うお返事を
いただいていたので映画館の写真や過去の新聞に関しては半分諦めていたのだった。
こちらの青森駅前の市民図書館で本でまとめてあれば良いなと思ってはいたが、このように
マイクロフィルム化してあるとは嬉しかった。探しやすいのである。
(これは図書館でマイクロフィルムに気づかれたちびとらさんのお手柄)
マイクロフィルムはずいぶん痛んではいたがなんとか読める状態であった。
私も途中から1975年7月8月を調べていたちびとらさんの隣のもう一台の映写機で
1975年6月の新聞を、図書館のフィルム経年劣化の不具合や汚れに苦しみながらも1時間半ほど探した。
2回ほどモニターを行きつ戻りつ、フィルムの不具合と闘いながらも
なんとか私は目を凝らしてゆっくりゆっくり調べていくとようやくこんな記事を見つけた!↓
この赤い囲みは1975年(昭和50年)6月27日の新聞朝刊で
『明6月28日に善知鳥(うとう)神社で祭礼シーンの「ロケ」を行います
先着100名エキストラを募集します。老若男女服装問いません(薄謝進呈)
十一時より現場にて受け付けします。』という告知が掲載されていた。
これは貴重なものだ。
それ以外にも6月29日の朝刊での記載も見つかった。
29日の記事では
前日の寅次郎相合い傘の青森ロケが1975年(昭和50年)6月28日に
青森市内2箇所と善知鳥(うとう)神社とで行われたことが書かれていた。
ただ、残念なことに青森市内のロケはこの善知鳥(うとう)神社での啖呵バイの
撮影記事に絞られていたのでスバル座や港を歩く寅の撮影は記載がなかった。
ちびとらさんも1975年7月に山田洋次監督を取材した記事や北海道ロケの記事を発見された。
ちびとらさんが発見されたものも含めて4つか5つの「寅次郎相合い傘」絡みの記事が見つかった。
とても興味深い物ではあったが残念ながら【スバル座】での撮影のことには
触れられていなかった。
このことに触れるのは、先日「序曲」に載せた、あの、
その撮影の20年も後の1996年に同じ東奥日報社出版の
「青森シネマパラダイス」の中だ。この書籍↓は私が6月7日ごろに通販で手に入れたもの。
1日目の祝杯! ロケ場所がスバル座館内と青森スポーツガーデン(旧高栄劇場)の前の道と確定!!
【焼き竹の子】は旬で美味でした。
二日目は
まず二人で、超だめもとで
例の「青森シネマパラダイス」や新聞記事があった東奥日報社本社に向かう。
しかし、本社の方にお話を聞いていくうちに、記事や写真のデータベース化がまだ10年分しか出来ていなくて
新聞記事に載っていないスバル座の写真や1975年の没になった取材写真などを探すのは、
未整理の状態なので膨大な時間がかかるとのこと。
また、たとえ見つかっても何万円という調べた時の経費を
こちらが払わなくてはならないということだそうだ。
まあ、諦めるしかない。┐(´-`)┌
本社を出て 午前10時半
私は、もう一度現場に立ち戻ろうと思い、
青森市栄町2丁目7−19の撮影場所に訪れてみた。
いくつかの昔からお住まいの家を訪ねたが、ほぼ昨日と同じような感想と記憶だった。
そして、最後に青森駅に戻る前に、もう一度当時のカメラ位置で撮影していると
私の撮影していた後方斜めのお宅の奥様が掃除をされていた。
表札を観ると「工藤」と書かれていた。
工藤さんは撮影当時もこの土地に住んでいらっしゃった方だと当時の住宅地図で調べていた。
昨日はおられなかったご様子だったのでチャイムは鳴らさなかったのだ。
せっかく外に出てこられてお掃除されているので、だめもとで少しお聞きしてみた。
すると、なんとなんとあの1975年のスバル座ロケのことをはっきり覚えていらっしゃったのだ!
あの日は工藤さんの奥様は昼は外に出ていらっしゃったのだが
午後に帰ってくると、撮影直後で、スバル座の道の四つ角のところでざわざわと比較的大勢の人が
集まってしゃべっていて
『お昼にスバル座の中で寅さんの映画制作の撮影があったらしい。
渥美さんも来ていたし、監督さんも来ていた』
と、みなさんがしゃべっていたそうだ。
インタビュー動画:https://youtu.be/57xB8-uxnCM
この工藤さんの動画インタビューは重要な証言ゆえ当該箇所には「字幕」が付きます。
youtubeの字幕ボタンを押して字幕付きでご覧ください。
大変貴重な証言をしてくださった工藤さん。
もうこれで完璧!!
大きな大きな証言を最後に得られて本当に良かった。
私とちびとらさんは思いのほか、取材がスムーズに進んだこともあって
夕方の新幹線を繰り上げて、午後2時の新幹線に換え、新青森をあとにした。
青森駅前の青森魚菜センターで
【選んでごはんに乗せれる青森港朝とれの鮮魚の丼】をガッツリ食べ、
新幹線の新青森に向かった。
2017年6月28日 追記
スバル座
高栄劇場
(後に青森スポーツガーデン)
この2つの当時の写真が手に入った。
これもまた
青森県立図書館の郷土資料担当スタッフさんのおかげです!!
素晴らしき青森県立図書館のお仕事ぶり!!
当該書籍を「図書館どうしの相互貸借」という制度で
借りることができることも教えてくださった。
これも素晴らしい制度。
郵送料として自己負担700円は必要だが
遥か青森県立図書館から葛飾区の中央図書館まで
送ってくださったのだ。
素晴らしき図書館の連携活動!
このような本。「懐かしの映画ポスター - 戦後復興期の映画 -」
映画ポスターの展覧会のための図録に近い書籍だった。
そしてこのような昭和25〜40年当時までの
映画黄金期の青森市内映画館マップが見開きで写真入で紹介されていた。
位置もばっちり載っている!! 映画館群は大きく分けて青森駅近くの西部 と堤川付近の東部に分かれる。
高栄劇場とスバル座はお互い正面どうしで
対峙していた。
二つの映画館とも「キノシタさんと高橋さんの共同経営」なので
建物の建築デザインも似ている。
邦画専門の高栄劇場が昭和25年開館、翌昭和26年に洋画専門のスバル座が開館。
高栄劇場は昭和25年から昭和40年まで
東宝系の映画を上映していたらしい。
建物の正面どうし向かい合って建っていた事は
いろいろな方の証言でわかっている。
寅は、まず、このスバル座の正面から出て
スバル座とスポーツガーデン(スケート場)の
両方に挟まった前の道を
南に歩いて行き、この2つの建物の
南の角の「四つ角」まで来て
今度は西に曲がって行ったわけだ。
高羽さんのカメラは
上にも書いた2つの建物の南の角の「四つ角」で待機し
寅が北から南へ歩いて、
四つ角で西へ曲がっていく姿を
パンで追いかける。
まあ、この写真のあと
高栄劇場は
スポーツガーデンに変わった時に
かなり外装を変えている感じ。
スバル座も映画撮影時にはかなり外観デコレーションは
変わったのかもしれない。
そして「寅次郎相合い傘」撮影時にはスバル座は
外観かなり改装してあったと思われる。
黄色が高栄劇場 赤色がスバル座 このころは明らかに今と違う形なのが航空写真でも分かる。
高栄劇場は昭和40年に閉じ、その後スポーツガーデンになった。形がかなり変わったことがわかる。
キノシタさんと共同経営だった現場の映画館主高橋さんの名前から高栄劇場となったことが書かれている。
映画館の流れの年表も作られていて、その中に高栄劇場とスバル座の起こりと結末の記載がある。
スバル座の閉館は書かれていないが当時の住宅地図をひとつひとつ見ていくと
1982年ごろに閉館していることがわかる。
このような本。
この写真からは
映画シーンのヒントとしては・・・
撮影位置などが映画と違うので
ほとんどわからないが
スバル座や高栄劇場の姿が
垣間見れてなんだかちょっと嬉しかった。
終わり
時系列順にですが 以下の方々にお礼申し上げます。
上記の八戸のY.E さんのメールがすべてのはじまりでした。
Y.Eさん、本当にありがとうございました。
青森県立図書館のスタッフさんたちには事前の調査のお手伝いをいただき
本当にありがとうございました。特に「青森シネマパラダイス」の記述発見は
大きな証拠のひとつとなりました。深く感謝いたします。
青森観光コンベンション協会の小山内さまはじめスタッフの方々、
スバル座や高栄劇場のことでメールを何度もいただきありがとうございました。