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藤田晋一さんの思い出
私は自分で言うのもなんだが、ちょっと感覚が変わっている。・・・らしい。
連れ合いや息子も含めいろいろな私を良く知る方たちがそういうのだからまあ、そうなんだろう。
で、類は友を呼ぶ。
いろいろユニークな友人がいる。
かなりの変人クラスも一人や二人ではない。
そんな私の周りの友人たちの中でもひときわ際立って変わり者だったのが藤田さんだった。
ただの変人で人格破綻者に近い場合、私は友人にはならない。
お近づきになりたくない。
でもたとえば車寅次郎のような変わり者だとしたらそれは変人ではあるが、
その変わっているキャラクターも含めて輝く魅力があるのだ。
藤田さんはもちろんあんな愚かな車寅次郎とはまったく似ていない人ではあった。
一昨年春 私の親しい友人である酒井啓吾さんからの紹介により、
京都市北区の藤田さんのお店兼ギャラリー「花梅」で
絵画と染織工芸展を企画していただいた。
藤田さんはとにかくへんに志が高い。
でも、自分の了見を曲げてまで人との和を保つことを潔しとしないので
花屋での山野草栽培を得意とする彼の腕を信じている一部のお客さんや古くからの友人たち以外とは
さほど誰とも広く親しくはないのだ・・・(;^_^A
しかし、花屋と兼業で、応援したい作家さんのギャラリーとして使って行きたいという将来の夢は
しっかり持っておられた。
頑固な変わり者で、好き嫌いが極端に激しく、誰もから好かれる気質ってわけではないのに、
多くのお客さんたちに陶芸の作家さんや私のことを伝えようとするなんてちょっと無茶だなって思っていたけど、。
そういう意味では「儲かるギャラリー経営者」としてはぜんぜん向いていないけど、
誰かを本気で応援しようとする一途でぶれない頑強な気持ちの存在は
実は企画を本業とするギャラリー経営者としての一番の資質だったとも思う。
そして藤田さんのお店にお邪魔するたびに、まきおこっていたのは
藤田さんご夫妻の口喧嘩だった。
藤田さんも奥さんも経営方針や接客でしょっちゅう意見が分かれ、
そのたびにあーだこーだそうじゃないだろ、こうやんか、ちゃうやろが、
矛盾してるやんか、なにもわかってないのはそっちやろ・・・もう永久に続くバトルだった。
こちらがハラハラするくらい頻繁に起こる愛情丸出しの口喧嘩だったが
あのなんとも味わい深い喧嘩がもうみられないのかと思うととてもさみしい。
昨年の展覧会中から咳が止まらなくて困っておられたが、肺に腫瘍が見つかって
入退院を繰り返し、いったんは秋ごろにバイクにまたがって乗りまわせるほどになってたが
今年3月下旬に肺に水が溜まってしまい、衰弱されていった。
あの独自の藤田節やあの夫婦喧嘩がもう見れないのは私の人生のけっこうな損失だと
今しみじみ思っている。
ハマショウ ファン 3人組 藤田さん 中島さん 酒井さん
天井付近にも焼き物のコレクションがぎっしり
ギャラリーでもあるが、それ以前にまず花屋さんでもあるのだが、大きな文字看板はなく、作家さんのオブジェがある↓。
私の友人の中島さんが展覧会に来てくださった時も、藤田さんも中島さんも「浜田省吾」さんファンだったので会話は盛り上がった。
私の展覧会に飾ってあったバティック服を買ってくださり、展覧会中着てくださった。
藤田さん、私、中島さん、酒井さん、前で椅子に座っているのは中島さんの奥様。
後ろを通っていらっしゃるのは藤田さんの奥様。
藤田さんは、一部の自分が気に入った陶芸を熱烈に支持されていた。壁にかかっているのは私のデザインの「おわら風の盆」タペストリ
柿渋で染める京都の染色作家さんも一生懸命応援し、暖簾、タペストリをいつも店にかけられていた。
私が撮影した最後の藤田さん このころはもうかなりきつそうな咳が頻繁に出ていた。
人に写真も動画も決して撮らせなかった藤田さんだったが、
なぜか私がカメラを向けると絶対に嫌がらずにふわっと良い顔をしてくださった。
その彼の気持ちに私は報いなければならないと思っている。
これらのふくよかな写真たちすべてを、敬愛する藤田晋一さんに捧げます。
藤田晋一さん 平成二十八年 四月十四日 朝 永眠 五十五歳
合掌
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