ゴッホのこと
2002年4月1日
アーモンドの花
最近友人にゴッホのことを訊ねられたのがきっかけでもう一度「ゴッホの手紙(書簡集)」を読み返している。
私にとって「ゴッホの手紙」はバイブルのようなものでもう何回読み返したかわからない。しかし私が年齢を重ねるたびに
解釈や理解の深さが変わってきてとても新鮮だ。私は自他ともに認めるゴッホ狂いで、17歳の時本物のゴッホの絵を
見て以来、ヨーロッパ中の美術館をまわり、何百枚ものゴッホの絵を見てきた。ゴッホの文献も恩師の坂崎乙郎をはじめ
小林秀雄、アントナン.アルトー、アルバート.J.ルービン、コリン.ウイルソン、トラルボーなどたくさん読んできたがやはり
「ゴッホの手紙」に勝るゴッホを知る手がかりはない。いずれこのHPでも紹介していくつもりだ。下に私がゴッホの絵で
もっとも好きな1890年「Almond Blossom」(アーモンドの花)を載せます。この絵は唯一の理解者であり生活援助者で
あった弟のテオにゴッホと同じ名前の「ヴィンセント」という赤ちゃんができた知らせを聞いて、記念の気持ちで描いた作品だ。
なんという美しい絵なのだろう。私はこの絵の複製を自室に飾っているが、見るたびに心が洗われる。
そして自分もまた絵を描いていこうと思うのだ。ゴッホはこの絵を描いてからわずか半年後に37歳でこの世を去っている。
(↓ゴッホ作 『アーモンドの花』 1890年)
2002年4月4日
二つの魂 ヴィンセントとテオ
ヴィンセント.ヴァン.ゴッホが描く肖像画のモチーフは身近な人たちで、彼らをどんどん描いている。何枚も描く。
もちろん自画像も多く、そして傑作が多い。彼が最も尊敬していたレンブラントも自画像に傑作が多い画家である。
しかし1つの謎がある。あれほど身近な人を手当たり次第描いたゴッホがなぜ、最も彼を信頼し、最も彼の絵に
理解を示し、生活の援助者であった弟のテオの肖像を描かなかったのか。もちろんテオに興味がなかったはずはない。
ではなぜ?もし描きたくても描けなかったのだとしたら…。それはゴッホにとってあまりにも「リアリティを感じる他者」
であったからだと考えられる。あまりにも「自己」であり、しかし「他者」でもある。自画像のようには描けない。もっと
畏怖すべき存在だったのではないか。それほどまでもゴッホはテオに対してその魂を預けてしまっていたのだろう。
ゴッホとテオで表裏一体の人間ができる。それはゴッホの手紙(書簡集)を読んでいけば、どれほどこの2人が強い絆で
結ばれていたかが分かる。 テオが結婚し、赤ちゃんが生まれた時、それまでの彼らの「蜜月」は崩れ、テオは金銭的
にも精神的にも2つの魂に引き裂かれて、そして妻子を優先しようとしてしまい、それを垣間見てしまったゴッホは
あれ以上生きて、そして制作できるはずもなかった。ゴッホの自殺のあとわずか半年でもう一人の「自己」を失った
テオも精神を病み衰弱しこの世を去る。
オランダの彼らの故郷ズンデルトの広場に私の大好きなザッキンの彫刻がある。
テオに寄り添うヴィンセント、そして2人の肉体が重なり合ってそこに四角い空洞ができ、そこから悲しげなグレーの
空が見えるのである。
(↓フランス、オヴェ―ルにあるゴッホとテオの墓) (↓オランダ、ズンデルトにあるザッキンの彫刻)
2002年4月7日
問いかける眼
今日もゴッホのことを考えている。ゴッホはどうしてあれほどにも「自己」に忠実に行動し、「自己」に殉じたの
だろうか。いろいろ紆余曲折や挫折はあったにせよ、ある日、断固として彼は「画家になること」を決めてしまい、
そのあとちょうど10年描きに描いてこの世を去った。テオをはじめいろいろな人々との接触はあったにせよ、
その画業は孤独の中で推し進められ、たった一人の冒険を続けた日々だったにちがいない。彼はオヴェールに
移った直後、テオ宛ての手紙のなかで「僕の作品がいいとは思わないが、これが僕にできる一番ましなものだ。
他のことは他人に比べてあまりに劣っている。僕には才能がないからだが、そのことは僕にはどうにもならない。」
と書き、テオに画材の追加を無心している。ゴーギャンは彼を裏切り、弟テオとは破綻が近づきつつあることを強く
予感しながらもゴッホは断固制作だけをした。彼のあの10年はあまりにも自己に従った日々だった。「生活者」で
あることをなかば放棄し、「制作者」のみであり続けたその生き様はまわりの人々を巻き込み、顰蹙をかったかも
しれないが、人生としては実に簡潔で力強く、濁りが無い。彼ほど「生きることが描くこと」であったひとは後にも
先にもいない。現代に生きる画家達はもう一度ゴッホの自画像の前に立ち、彼の視線と対峙し、彼の問いかけに
立ち向かわなければならない。われわれがいくら逃げてもゴッホはまたわれわれの前に立ちはだかり、われわれの
目を見つめ続けるのである。そして彼はテオに送ろうとして送れなかった最後の手紙の言葉をわれわれにあの眼で
問い続ける。
「そうだ確かに、われわれは自分達の絵のことだけしか語れないのだ。..…そうだ、自分の仕事のために僕は、命を
投げ出し、理性を半ば失ってしまい―そうだ―..…でもいったいどうすればいい。」
私の人生の唯一の恩師である坂崎乙郎はこう言っている。
「ひっきょう、絵とは人生なのだ。キャンバスと生きることとの一体化なのだ。そのためには、画家は誠実でなくては
ならない、みずからに対して。誠実とは、他人に対しての良心と、誤解されているが、自己に忠実であることの、
いかに険しかったことか。」
(私の好きな2枚のゴッホ晩年の自画像)
2002年4月19日
赦すことのない眼
バリの私の部屋の壁に10枚ほどのゴッホの絵のポスターが貼ってあるが、その中にひときわ大きなサイズの
ポスターがある。この絵は、「ばら」と言う題名の、ゴッホが死の1年程前に描いた絵である。本物は東京上野の
西洋美術館の常設にある。この絵に最初に出合ったのは20歳の時である。西洋美術館で企画展があった際、
隣の常設も一緒に見た。「なんて素朴な絵なんだろう。それでいて力強くて、温かい。」すっかりこの絵の虜に
なってしまい、それ以後上野に行く度この絵を見続けた。世界のいたるところに氾濫する、小賢しく小手先で
描いた絵や観念的な作品を見てしまった後は絵が少し嫌いになる。そんな時、家でじっとあの絵を見て過ごした。
「難しいことや、ややこしいことを考える事は無い。対象に気持ちを開き、感動したその心を大事にするだけだ。」
そのような気持ちが湧いてくる。「足元にある花を見よう。」と。
このポスターは学生時代の下宿の壁に始まり、そのあと中学校の先生をしていた時、私の担任クラスの壁を
転転とし、先生をやめてバリに移住した時、大切にトランクに入れてきた。私にとっては自分の道の羅針盤の
役目を果たしてくれた絵なのだ。縁が深いんだな、とも思う。私の人生は今も絶望的で真っ暗闇だが、ただ一筋
細い光が差している。それがゴッホの何枚かの絵だ。そして彼の手紙だ。この光だけを頼りにもう何年も歩いてきた。
究極のところ、家族も、書物も私の人生を支えきれはしない。支えることができるのはゴッホの歩んだ日々と何枚
かの作品だけだ。絵の人生を歩む者はやはり「絵」に救われるのだろう。
ゴッホの絵は本当に濁りがない。普通どんな有名な画家も、絵の中に若干の世渡りや驕りがでるときが多い。
ゴッホは自分の絵が売れることをいつも強く望んだ人だし、世の中に認められることも強く望んだ。それは書簡集を
読めば、一目瞭然だ。しかし、だからといって絵を濁すことはしなかった!気質的に、感覚的にできなかった。
ここに彼の天才性がある。前も書いたが、彼は、「炎の画家」ではない。もっと冷静だし、タッチも全く荒れていない。
本当に絵が好きだったんだなと、絵を見るたびにそう思える。彼こそが近代以降の中で、唯一
「絵を描くことをそのまま純粋に人生とした人」なのだと思う。もっともそれができたのも弟テオがいたからだ。しかしテオも
自分の生涯を兄の才能と制作に賭けたのだから、ほんとうはこの2人は持ちつ持たれつだったはずだ。
そう思ってまた彼の絵を見ると2人の眼差しが見えてくる。温かい眼差しだが、決して赦すことのない眼がそこにある。
(↓ ゴッホ作「ばら」1989年)
2002年12月1日
ただそれだけのこと
しかしそれにしても毎日長いスコールが降る。今日などは昼から真夜中まで豪雨が続いている。
今これを書いている間も真っ暗闇の中を増水した川がものすごい音を立てている。まるで嵐の中でさまよって
いるように心細く恐い。そしてこの世界で今おこっている数々の恐怖のように果てしない。
私の人生もこの豪雨のように全く先が見えない「真っ暗闇」だが、そのなにも取っ掛かりのない闇のそのまた
遠く先に小さな光が見える。その光が唯一私に「平安と勇気」を与えてくれる。それがヴィンセント.ヴァン.ゴッホの
何枚かの絵だ。どんなバイブルや哲学書よりも私の心にそのつど付着する錆びや垢を洗い流してくれる。
そしてこのややこしく入組んだ人生をとてもシンプルに見せてくれる。私は、自分の人生はシンプルでありたいと
願っている。過去の愚かな過ちも、未来の不安も関係なく今日の一日を「絵」とともに生きれたらと、そればかり
思っている。
クタで起こった悲劇もアメリカが今しようとしている戦争もこの現実の世が「無間地獄」であることを私に知らしめ
る。そしてそれらのことにより虚無に陥りがちになる私の心に希望の光を与えてくれるのがゴッホの絵であり、
レンブラントの自画像だ。優れた音楽や絵には戦争を止める力はないかもしれないがが、戦場にいった兵士や
残された家族、不安に怯える市民の痛んで傷ついた心を優しく包み込んでくれる力はあると思う。
もちろん私はそのような絵が描ける筈もなくただ自己満足の絵を描いているに過ぎない。またそのような絵の
効力を思って絵なんて描くものでもない。ゴッホは絵を描くのが好きだから描いたのであって、それ以外のことを
絵を描く時は考えていない。描いたあとは売れたいとかいろいろなんでも考えるが、絵を描く時は無心である。
これがほかの画家とゴッホの違いだと思うし、ゴッホの天才性もここのところにあると思っている。つまりゴッホは
誰よりも「絵が好き」だったのだと思う。『ただそれだけのこと』なのだろう。だからこそ彼の絵はみずみずしく美しい。
(9月に見た兵庫県立美術館のゴッホ展から一つ紹介します。 『ローヌ河畔の星空』1888年9月制作)
2003年2月12日
ゴッホのオークション
アグンライが亡くなってからここ半年で彼の家族に余計な出費が続いた。なぜ彼が42歳という若さで
亡くなったか未だに理解できない彼の家族たちは、いろいろなお坊さんに何か因果関係があるのでは
と、聞いていったようで、その結果、あるお坊さんは、台所の位置が悪いからだ、と、のたまい、
違うお坊さんは部屋の数が寺の祠の数と同じなのが悪い。と、のたまった。それで、ちょうど今年、
私から借地の更新料が入ったこともあって、台所を敷地内の違う場所に新しく作り、祠の数を2つ増やした。
私が払った借地料の四分の一が消えていった。それでもまあ、アグンライの家族がノイローゼになるよりは
ましか、と思い私も静観した。バリの人々はまだまだこのような私に言わせれば「迷信」のようなものを
信じている。それはバリヒンドゥ信仰と密接な関係にある。
その一つが私の敷地のことについてもいえるようである。彼らにとって霊峰アグン山の方角は聖なる方角で
あり、このサンギンガン村でいえば「北東」の方角になる。私の敷地は北東ですぐ下は深い渓谷になっており、
サンギンガン村では私の敷地はとても「聖なる」土地で、一般のバリ人はこのような敷地に絶対に家を建て
ないそうだ。不浄な土地も嫌がるが、あまり聖なる土地もヒンドゥの神様に怒られるので近づけないそうである。
だから当初、ここに家を建てようとしたときアグンライはずいぶん私を心配していた。しかし私はヒンドゥの
神様を信じているわけではない。むしろ、日本人なので、どちらかと言うと仏教徒だ。私はアグンライを安心
させてあげようと思いこう言った。
「大丈夫だよ、私の信じる仏教ではこの方角は最も建築に適していて家内安全、無病息災が続くんだ!」
と。彼はとても安心した顔になって「そうだったな。タカアキは仏教徒の国の人だからこれでいいのかもな。」
と妙に納得していた。何事も信じれば救われるのだろう。
絵を描くということも信じなければできないことで、信じていない人にとってはどうでもいい行為なのだろう。
どうでもいいどころかゴッホのように怖がられたり、怒られたりして、まわりの人にとってはとんでもない迷惑
者になってしまうんだろうなと、つくづく思う。
しかしそんな迷惑者であったゴッホの小品が6600万円でオークションにかけられるのだから世の中
は皮肉だ。あのゴッホの絵だってオークションの業者はゴッホの名前抜きで純粋に絵だけだと2万円から
3万円ほどと評価したわけだ。だから一般の人にとってはあの絵は「昔風のしょうもない習作みたいな絵」と
いうのが正直な感想だと思う。
オークションの底値というのはそのあたりの一般の人々の眼が正直に出てしまうから面白いし、別の言い
方をすればそんなところの評価や値段なんて実にいいかげんだ、とも言い切れる。まともに相手にする必要
はない。ゴッホの名前がつけば加筆バシバシで痛んでいようが、ゴッホの中では決して傑作とは言い切れ
ないような絵であろうがいきなり6600万円なのだ。ゴッホは10年間で相当たくさんの絵を描いていて、
同じようなモチーフも同期間にたくさん描いている。それゆえに傑作も多いが、失敗作と思われる絵も多い。
金儲けや名声目的の場合は「ゴッホ」と言う名前こそが全てなんだろうが、私にとってはゴッホの名前なんて
どうでもいい。これはゴッホだけでなく、古今東西の有名無名のあらゆる画家の絵にも言える。
私の持論は絵は常に「匿名」であり、となりのおばさんの絵もレンブラントの絵も関係なく「絵」でしかないと
思っている。私はゴッホやレンブラントが好きだが、突き詰めて書くとレンブラントのあの絵とあの絵、ゴッホ
のあの絵とあの絵という風に絵が浮かぶ。
いつも思うし、これまでも書いてきたが、「最初に絵がある」のであり、そのあとに画家の名声や物語や
歴史があるのだと思っている。
ややこしいことを考えない。
絵というものを信じるのか信じないのか。 絵を描くのか描かないのか。それだけである。
ちなみにあの6600万円のゴッホの絵はテレビで何度も見たが眼と鼻にかけてのしっかりとしたとらえ方に
ゴッホらしい感覚が残っていた。もし加筆前ならば、ゴッホの中では決していい方のできではないにしても、
もう少し感覚的なタッチが見えて、そう駄作でもない絵だったのだろうと想像はできる。
ただ、見た感じそうとう加筆が激しいのでずいぶん絵そのものが単調になってしまっている。うまく修復し、
洗えるといいのだが、ちょっと難しそうだ。
いずれにしてもたとえ10万円でもいいからゴッホと言う名前でなくこの絵そのものが気に入って買って
ほしかった。この絵を持っていた中川一政さんは、ひょっとして絵の中身を気に入って持っていたのかも
しれない。そうであってほしい、と思うのは私だけであろうか。
この絵がゴッホでなかったとしたらいったいいくらくらいで落札されたのだろうか。
ひょっとしたらゴッホかもしれないとひそかに思った人は博打のつもりで300万
円ほどか。ゴッホということをまったく意識しないで、絵だけ見て買う場合はせい
ぜい10万円どまりだろう。
2003年4月9日
ゴッホ全画集のこと
今回のバンコク行きで、思わぬ幸運が2つあった。ひとつはのシンガポールエアラインで「たそがれ清兵衛」を
観れたこと。もう一つは日本ではなかなか手に入らない ゴッホ全油彩画集 ( タッシェン社・ミディアートシリーズの
Van Gogh The Complete Paintings)の英語版を安く(4000円)で手に入れたことだ。
このタッシェン社のゴッホの全油彩画集は、「画家への道」「ヌエネン時代」「都会の体験」「絵画とユートピア」
「不安の叫び」「終章」にわけてこと細かに収録されていて、行方不明の絵や描きかけの絵なども全て収録してあるので、
ゴッホの仕事を全部見たい時にはとても便利。当時のゴッホを含めた関係者達や関連のあった場所の写真も出来る限り
載せてくれて、それも親切。それぞれの解説もたっぷり載っているので電話帳くらいの厚さになる。
96年に全2巻で刊行したものの合本版だ。載っている作品は871作品(ほとんどカラー)!。日本語版はもう入手が極めて
困難だ。バンコクの紀伊国屋洋書部門のコーナーで見つけた。(英語版はまだ日本でも注文すれば手に入る。)
こんなもの、もし日本の出版社が作ったら1万円くらいはするだろう。洋書は安い時は安いから嬉しい。
私はゴッホの画集を何冊も持っているが全て日本に置いてある。1冊1冊が重いのだ。それでつい、バリでは小さな画集で
間に合わせていた。しかしそろそろまじめに全画集をバリで見たくなっていた。だから、とてもよいタイミングだったといえる。
もちろんこの本には欠点もある。日本で出ているゴッホの画集と比べて印刷の色の出方が若干よくない。しかしまあ、
日本の画集の色もひどいものは相当ひどいので私はこの本でも満足である。私の恩師の坂崎乙郎先生が監修された
「ゴッホ全画集」はおそらくゴッホの画集としては、色とマチエールの出方が最高だと思われるが、とにかく大きいし重い。
というわけでこの本を暇さえあればぺらぺらめくって見ている。私が見たことも無いゴッホの絵が時々見つかるので
とても嬉しい。英語もそんな難しい単語は無いのでまあ大丈夫(だと思う…)。楽をしたければ、スキャナで撮って
パソコンに翻訳させれば簡単だ。(ちょっとたどたどしい訳だが)
「たそがれ清兵衛」も静かなリアリティがあって近頃の映画の中では珍しく地に足がついていた。映画の中に風が吹いていた。
それで時代劇をもう何本か見たくなったのでバンコク滞在中レンタルで自分が好きな黒澤明の「用心棒」と「椿三十郎」を見た。
やはりどちらも凄まじい映画。たそがれ清兵衛が吹っ飛んでしまった。なんというアクション。なんというテンポ。凄いエンター
テイメント!全編を通して全く飽きさせない。スタッフもキャストも燃えている。時代も燃えていたのだ。
映画は「理屈」や「理念」を表に出して作ってはいけないのだろう。「感覚」と「運動神経」を前面に出して作るのだということが
よく分かった。絵もそうなのだろう。それでも今の時代で「たそがれ清兵衛」が作れたのは注目に値する。さすが山田洋次さんだ。
ちなみに、「用心棒」は映画なので2時間観なくては完全に分からないが、「絵」というものは1分でエネルギーが伝わる。
そして言語も予備知識も何も必要としない。そのうえ誰もが「絵心」さえあれば今すぐに描ける。お金もそんなにかからない。
すばらしい世界共通の感覚だ。外国で絵を描き、外国人に絵を売ってきて13年。このことはいつも感じる。
ゴッホ作 「グラスにアーモンドの花咲く小枝」1888年
2004年4月8日
東京春物語 その1 上野公園 ゴッホのバラの絵
ようやくウブドに帰ってきた。ウブドではほんとうによく寝られる。旅で疲れがたまっていたのだろう、爆睡してしまった。
日本ではいろいろな仕事上の用事を片付けながら、合間を縫ってエキゾッチックジャパンを味わった。
滞在中全て晴天で幸運だった。じつに久しぶりの春爛漫の日々だった。
成田についたのが3月31日朝。思ったより寒くなく、6年ぶりの上野公園へ向かった。成田からの電車はガラガラで
窓から見える風景のいたるところに7分咲きから満開の桜が見え、なんとも懐かしく、穏やかな気分に。
息子は東京生まれだが、バリに移住したあと数回しか東京に来ていないので、彼にとっては異郷の地であるらしい。
上野公園に着くと、桜はもうどの枝も満開に近く、春真っ盛りだった。平日にもかかわらず花見客でいっぱい。
東京に11年も住んでいたがこんなに満開の桜を見たことはなかった。このあと滞在中いたるところでいやというほど
桜を見ることになるのだが、とにかく上野の桜は見事だった。
そのあと予定通り、国立博物館と西洋美術館の常設を観る。いつ行ってもこの二つの常設は素晴らしく、
そして館内はすいている。ゆったりと観れるので嬉しい限りだ。博物館の裏手にはなかなか風流な広い日本庭園がある
のだが、一般にはあまり知られていないらしく、いつ来てものんびりと散歩できる。ここでも桜がたくさん咲き誇っていた。
ここの場所は穴場だ!
西洋美術館のゴッホのバラの絵は10年ぶりくらいだろうか。やはりこの絵は強い。小さい絵だが、ものすごい凝縮感だ。
ちっとも荒々しくなく穏やかな画面なのにエネルギーが充満している。息子は数年前に大規模なゴッホ展を観ている。
彼は14歳なりにゴッホの絵が持つ独特のパワーを感じているようだった。でも彼はどちらかと言うとモネの何枚かの絵が
気に入ったらしく、結構見入っていた。ここのモネもいい作品が多い。私も大好きだ。まあとにかくいきなり春の洪水に
遭遇して、もう文句なしに嬉しく、楽しく、6年分の春を頂いた気分だった。
(博物館の前まで桜並木がこれでもかっという感じで続く。上野公園とは違い、博物館の裏手の庭園はバランスよく春が来ていた。)
(ゴッホのバラの絵。この絵を描いた翌年ゴッホはこの世を去る)
以上バリ日記より抜粋