坂崎乙郎先生とモネ
一生一品
2002年6月26日
先日クロード.モネの画集を見る機会があって、クロード.モネの実物を久しぶりに見たくなった。
クロード.モネは睡蓮や積み藁などの風景画が有名だが、妻のカミ−ユや息子のジャンを風景
の中に立たせて描いた絵も多い。彼も身近な人々、身近な風景を好んで描いた画家だ。
日本にも西洋美術館の松方コレクションなどをはじめ、たくさんのモネがある。恩師の坂崎乙郎先生が
亡くなる1年ほど前、講義で、自分が死ぬ時のことをおっしゃったことがあった。坂崎先生は「病院
で死ぬのは断じていやだ。私が死ぬときはパリにあるオランジェリー美術館の中にあるモネの睡蓮
の部屋で死にたい。部屋全体が大きな円形状になっていてその中に立つとモネの絵の前に立って
いるのではなく、モネの絵の中にいる感じがした。あの中で眠るように死ねたら。」とつぶやかれた。
坂崎先生が亡くなられてすぐ私はあの時の講義を思い出した。そしてパリに行きオランジェリー美術
館の睡蓮の部屋に自分が入ってみたくなった。それから2ヵ月後、私はオランジェリー美術館の睡蓮の
部屋に立っていた。360度すべてモネの睡蓮である。水の香りがし、やさしい風が吹いてくるようだった。
そして私は坂崎先生のあの日の講義を思い出し、感無量になってしまった。
学部が異なる私に、快く4年間も聴講を許可してくださり、毎回、講義を3時間も4時間もぶっ続けでされた
坂崎先生の情熱を私は生涯忘れないだろう。
私たちは尊敬と親しみを込めて「坂崎さん」と呼んでいた。
そのような呼び方が早稲田の伝統でもあった。
結局私は卒業後も一年講義を受けたので5年間教えていただいたことになる。
今、私は自分が使っているパソコンの壁紙にモネの絵を貼っている。モネの絵の中で私がもっとも好き
な絵だ。それは睡蓮でも積み藁でもない。それは「死の床のカミ−ユ」1879年の作品。
当時、比類なき技量があるにもかかわらず、冷遇の時代を生きなければならなかったモネにとって妻の
カミーユの愛情はなにものにもかえがたいものがあった。しかしその妻が32歳の若さで2人の子供を残し
てこの世を去ってしまう。悲しみにくれながら、モネは彼女の顔を描く。制作中にふと我に返った彼は、
こんな時にさえ絵を描いてしまう絵描きとしての業に自らおののき、自分に絶望する。
しかしその絵には人間の尊厳が、共に生きてきた軌跡が、覚醒された意識の中で見事にそのタッチに
表現されていた。私はこの絵こそが間違いなくモネの最高傑作だと思う。モネの真骨頂がここにある。
あのオランジェリー美術館のすぐ近くにあるオルセー美術館にその絵は今も飾られている。
「私は鳥が歌うように絵を描きたい」といったモネの言葉を、私は、絵を描いて20年以上たった今、ようやく
少しだけわかってきた気がする。
そういえば日本の画家、熊谷守一も息子の陽が死んだとき、枕もとで息子を一気に描いた絵があった。
彼もモネと同じで絵を描いている自分に愕然として30分でやめてしまった。と本に書いてあった。
倉敷の大原美術館にある「陽の死んだ日」である。この絵は熊谷守一の「一生一品」だと私は思っている。
タッチがすべて生きている本当に凄い絵だ。この絵も私の部屋の壁にポスターが飾られている。
(オランジェリー美術館内にある睡蓮の部屋。この部屋は地べたにおしりをつけて見れるようになっている。もちろん椅子もある。)
(↓モネ「死の床のカミ−ユ」1879年.オルセー美術館蔵) (↓熊谷守一「陽の死んだ日」1928年大原美術館蔵)
バリ日記から抜粋