無言館のこと
2002年6月17日
ウブドに最近裸婦を描けるところができた。週に2回もあり、日本と比べて格安なのだが、自分でも
意外なくらい執着が薄い。裸婦は今でも描きたいし、時々は描く。しかし大勢で取り囲んで裸婦を描く
というあのシステムがどうも体に合わなくなっている。人間を描く場合、その人をよく知っていることと、
独りで描けること、が今の私にはとても大事になってきている。このHPにも載せている裸婦の後姿
「座るウブドウの娘」(現在アグンライ美術館蔵)は、実はよく知っている娘さんにお願いして描かせてもら
た。造形的な魅力もさることながら、今の私は、その対象者との「共生」の意識をもって絵を描きたいのである。
去年の帰国の際、仕事の合間をぬってどうしても見たい絵があった。その絵は信濃の上田の「無言館」とい
う小さな美術館にある。その絵を見るために北陸から6時間車を飛ばした。台風一過で澄みきった空の下、
静かな丘のてっぺんにその美術館はあった。上田の町の中にも美術館の近くにも案内板や掲示板がほとん
どない。あとで学芸員の人に聞いてみると、館長の窪島誠一郎さんの方針で、ひっそりと、知っている人だけ
がぽつりぽつりと訪れてもらいたいので、観光目的の宣伝は極力避けているとのことだった。
入ってすぐその絵が眼に飛び込んできた。やはり想像していたとおりの美しい裸婦で、作者の恋人を描いた絵で
あった。造形的興味や執着を遥かに超えた「共生」の意識の元に描かれたその絵は「絵とはこうなのだ。」と私に
語りかけてくるようだった。作者の名は日高安典。24歳になるこの年戦争で召集され戦地に向かうぎりぎりまで
この絵を描いていた。そしてその恋人に「あと10分でもいいからこの絵を描き続けていたい。生きて帰ってきたら
必ずこの絵の続きを描くから。」と言い残して戦地に発ったそうだ。戦争が終わる昭和20年彼はルソン島で戦死する。
享年27歳。だった。
この絵には技術を遥かに超えたものがある。それは短い言葉ではうまくいえないが、「その人を思う気持ち」と
「絵を思う気持ち」の2つが重なり合い、二度と戻らない「今」のなかではりさけそうになりながら懸命に描いた。
そういう絵だ。この美術館にあるすべての絵に心打たれたわけではない。ここにある絵はすべて戦没画学生さ
んの絵だが、だからといってそれだけの理由で賞賛するつもりはない。しかし純粋に絵として見た時でも「心打
たれる絵」は少なくない。いつ襲ってくるかしれない死を強烈に意識しながらひとタッチひとタッチ思いを込めて
キャンバスに塗りこめていったからかもしれない。
これらの絵をご遺族の方々から集める時に多大な協力をされた画家の野見山曉治さんは、自らも、中国大陸
で死の狭間をさまよわれた経験をお持ちだ。彼はこのときの体験を文章に何度かされている。少し長くなるが、
私の人生に大きな影響を与えてくれた文章なのでどうしても紹介したい。
『もはやぼくたちにとって絵を描く時間はそう残されていない。このさき生き続けるという確信はないが、死ぬこ
とはないだろうと、どこか楽天的なところもあった。若者にとって死は縁遠い。とはいえそれまでの執行猶予に
変わりはない。
日々まみえる家族のひとりひとり、信じあえる友人、あるいは離れがたいひと、なにげないあたりの景色。それ
らが急に貴重なものとして浮かびあがる。そうした、かけがえのない日常を絵具や粘土で確かめるのは今しか
ない。秋の卒業式が終わるとみんなあわただしく東京を離れていった。それぞれ郷里の軍隊に入る。それから
どこへ連れてゆかれるのか、ぷつりと昨日までのことは断ち切られてしまう。
何日ものあいだ汽車は北へ向かって走り続け、ぼくが運ばれたところは粉雪が砂のように頬をなぶり、岩肌は
すべて白くおおわれた土地だった。線路はそこまでで終わっている。
すぐ目の前を壁のようなソ連領の丘が立ちふさいでいて、いくつもの穴ぼこから銃眼がぼくらの動きをうかがっ
ていた。ぼくたちの側はただ荒野だ。どこまでが空なのか、いくえにも重なった丘陵が空とおなじようなほの白い
光を放っていて、その上に並んでいる赤い煉瓦のの兵舎が、それぞれの屋根からうっすらとした煙を、凍てつい
た空に吐きだしていた。煙は息を殺したようにゆらぐ。
ある日、道ばたに美しい色の断片が滲んでいるのを見つけた。凍りついた雪をしばらくぼくは靴の先で削り、よう
やくその色を手にとることができた。なんでもない蜜柑の皮だ。
あの透明にうすくうすく絵具を重ねて空気の層をかもしだす中世北欧の画家の見事な手法を、ぼくははじめて実
感した。もし生きて還れることがあったら、絵を描きたいとそのときほど願ったことはない。
あれからの長い年月、ずっとぼくは絵と向かいあってきたが、ついに還ってこなかった友人たちは、どんな思いで
辺境の地に息を引きとったものか。ぼくはそのひとりひとりにお辞儀したい。』
「還らぬ友人たち」より抜粋。
今日もいつものようにイーゼルをたて、夕闇迫る自宅前の渓谷を描く。売れないかも分からないし、それどころか
発表すらしないかもしれない絵を描きながら、ただひたすら絵が描ける幸せを感じている。それ以外にとりあえず
何もない。
(↓日高安典 裸婦 1942年) (↓益田卯咲 波 1941年頃)
ちょうど、あの日、美術館を出たあと台風一過の青空を見ていたまさにあの日、
アメリカでは9.11のテロ事件がおこっていた。
そんなことはその時は知る由もなかった。ただただ、静かな澄んだ空が広がっていた。
2005年8月8日「無言館の絵」↓
2005年8月8日 無言館の絵
7月頃から、このHPの「男はつらいよ覚え書ノート」のページアクセス数がどんどん増えている。
やはりNHKで男はつらいよシリーズ関係の番組が始まったからかもしれない。テレビというのは影響力がほんとうに
大きいとつくづく思う。たくさんの人々がこのHPを見てくれるということは、ありがたいことだし、とても嬉しいことだ。
とはいえ、リアルな私の実生活はなにも変わらない。質素で平穏な日々である。
8月のこの終戦の日に近い時期になると、毎年、必ず『無言館』のことを思い出す。無言館に行ったのは数年前の夏、台風一過の
翌日で、お客さんは私たち家族しかいなかったせいか、とても静かな中で絵を見ることが出来た。このバリ日記でも紹介したが、
何枚かの絵に強く惹かれた。純粋に絵のことを考えて描かれたこれら何枚かの絵はいわゆる美術界の人々が「若描きの絵」と
言っているのとは違う、もっと生きることをギリギリまで追い詰めていく過程における彼らの強い視線が入っている。前にも書いたが、
あの場所に飾られている絵の全てがそうであるとは決して思わない。絵は絵であるから、やはり当時の流行に流された絵や、
甘さが残る絵もなくはない。しかし、あの絵たちの中に私の琴線に触れる絵が何枚もあった。絵はどんな理由があろうが匿名である。
これは私の持論だ。そのように、作家のすべての余計な情報や背景を消し去って見た結果、それでもたくさんの絵が私の琴線に触れたのだ。
無言館の絵もルーブルの絵も近所の公民館の絵も私は同じように見る。やはり絵が最初にある。
無言館のこれらの絵はしがらみのない絵と言ったらいいのか、生きる事がそのまま絵を描く事になったと言えばいいのか、その画家の
呼吸が切ないくらいにタッチに託されている。タッチの中に彼らの人生の風が吹き、その風は60年後の私の頬に確かに届いたのだ。
今の絵描きさんはああいう絵はもう描かない。描きたくもないと言うかもしれない。しかし絵は様式ではない。本物の絵といえるのか否か、
それだけである。絵を描くに値する日々を持ちえたのかどうかにすべてはかかっているのだ。私が感動した何枚もの絵はやはり絵が
人生だった人生が絵だった日々の中で生み出されたまぎれもない本物ということだろう。間違いなく彼らは現代のどの絵描きよりも
必死で今この時を生きたのだ。
下の4枚を見ていただきたい。これは甘さの残るいわゆる学生くさい絵では決してない。
かといっていわゆる現代の職業画家にありがちな、上っ面な手だれの臭みはない。
紛れもなく「絵」そのものなのだ。こういう絵を私は「絵」と言いたい。
私もこういう絵を描くために、そのためだけに30歳の時人生をまるごと捨てたのだ。
PS: この文章を書いている最中にNHKワールドプレミアムの『新日曜美術館』でなんと無言館の絵が紹介されていた。
山田洋次監督も館主の窪島誠一郎さんと一緒にゲストで出演されていてさらに驚いた。伊沢さんの下記の絵も紹介されていて
『何気ないいつもの身近な風景がもう明日から見ることが出来ないと思うと違ったように見えてくる。そのような濃密な時間の中で
描いた絵』というようなことを言っていた。全く同感である。
窪島さんは『これらの絵を自分が見るのではなく、絵に自分が見られている気がしている』と告白していたのが印象的だった。
ちなみに窪島誠一郎さんは私の連れ合い(宮嶋紀子)の2冊目の画集をご縁あってお持ちになっている。
とても気に入ってくださって、数年前に感想のお手紙(FAX)をバリの自宅に送ってくださったことがある。
とつとつとした静かな、それでいて強い文章だった。今でも大切に保管している。
左:日高安典 「ホロンバイル風景」
右:伊沢洋「風景」
左:桑原喜八郎「少女」
右:吉田二三男「港」
以上バリ日記より抜粋