野見山曉治さん さようなら



   
   
野見山暁治 《蔵王》 1966年 福岡県立美術館蔵

   




その昔、龍太郎がまだ小学生の中学年ころ、
帰国の際、仕事の合間をぬってどうしても見たい絵があった。
その絵は信濃の上田の「無言館」という小さな美術館にある。
その絵を見るために北陸から6時間車を飛ばした。台風一過で澄みきった空の下、
静かな丘のてっぺんに西洋の柩のような形をしたその美術館はあった。



   




上田の町の中にも美術館の近くにも案内板や掲示板がほとんどない。
あとで学芸員の人に聞いてみると、館長の窪島誠一郎さんの方針で、ひっそりと、知っている人だけ

がぽつりぽつりと訪れてもらいたいので、観光目的の宣伝は極力避けているとのことだった。

入ってすぐその絵が眼に飛び込んできた。やはり想像していたとおりの美しい裸婦で、作者の恋人を描いた絵であった。
造形的興味や執着を遥かに超えた「共生」の意識の元に描かれたその絵は「絵とはこうなのだ。」と私に

語りかけてくるようだった。作者の名は日高安典。
24歳になるこの年戦争で召集され戦地に向かうぎりぎりまで

この絵を描いていた。そしてその恋人に「あと10分でもいいからこの絵を描き続けていたい。
生きて帰ってきたら必ずこの絵の続きを描くから。」と言い残して戦地に発ったそうだ。
戦争が終わる昭和20年彼はルソン島で戦死する。享年27歳。だった。


この絵には技術を遥かに超えたものがある。それは短い言葉ではうまくいえないが、「その人を思う気持ち」と
「絵を思う気持ち」の2つが重なり合い、二度と戻らない「今」のなかではりさけそうになりながら懸命に描いた。
そういう絵だ。この美術館にあるすべての絵に心打たれたわけではない。ここにある絵はすべて戦没画学生さ
んの絵だが、だからといってそれだけの理由で賞賛するつもりはない。しかし純粋に絵として見た時でも「心打
たれる絵」は少なくない。いつ襲ってくるかしれない死を強烈に意識しながらひとタッチひとタッチ思いを込めて
キャンバスに塗りこめていったからかもしれない。




     日高安典 裸婦

    



これらの絵をご遺族の方々から窪島さんが集める時に多大な協力をされた画家の野見山曉治さんは、
自らも、中国大で死の狭間をさまよわれた経験をお持ちだ。彼はこのときの体験を文章に何度かされている。
少し長くなるが、私の人生に大きな影響を与えてくれた文章なのでどうしても紹介したい。

               

『もはやぼくたちにとって絵を描く時間はそう残されていない。このさき生き続けるという確信はないが、
死ぬことはないだろうと、どこか楽天的なところもあった。若者にとって死は縁遠い。
とはいえそれまでの執行猶予に変わりはない。


日々まみえる家族のひとりひとり、信じあえる友人、あるいは離れがたいひと、なにげないあたりの景色。
それらが急に貴重なものとして浮かびあがる。そうした、かけがえのない日常を絵具や粘土で確かめるのは今しかない。
秋の卒業式が終わるとみんなあわただしく東京を離れていった。それぞれ郷里の軍隊に入る。
それからどこへ連れてゆかれるのか、ぷつりと昨日までのことは断ち切られてしまう。



何日ものあいだ汽車は北へ向かって走り続け、
ぼくが運ばれたところは粉雪が砂のように頬をなぶり、岩肌はすべて白くおおわれた土地だった。
線路はそこまでで終わっている。


すぐ目の前を壁のようなソ連領の丘が立ちふさいでいて、いくつもの穴ぼこから銃眼がぼくらの動きをうかがっていた。
ぼくたちの側はただ荒野だ。どこまでが空なのか、いくえにも重なった丘陵が空とおなじようなほの白い
光を放っていて、
その上に並んでいる赤い煉瓦のの兵舎が、それぞれの屋根からうっすらとした煙を、
凍てついた空に吐きだしていた。煙は息を殺したようにゆらぐ。

ある日、道ばたに美しい色の断片が滲んでいるのを見つけた。凍りついた雪をしばらくぼくは靴の先で削り、
ようやくその色を手にとることができた。なんでもない蜜柑の皮だ。

あの透明にうすくうすく絵具を重ねて空気の層をかもしだす中世北欧の画家の見事な手法を、ぼくははじめて実感した。
もし生きて還れることがあったら、絵を描きたいとそのときほど願ったことはない。

あれからの長い年月、ずっとぼくは絵と向かいあってきたが、ついに還ってこなかった友人たちは、どんな思いで
辺境の地に息を引きとったものか。ぼくはそのひとりひとりにお辞儀したい。』  


「還らぬ友人たち」より抜粋。




野見山さんは102歳の長きに渡る生涯の日々の多くを、かつて戦地に散った自分と同じ境遇だった絵描き仲間のことを思い続けた人だった。
上にも書いたが、あの「無言館」の絵を集める際に、何年にも渡って館長の窪島さんと戦地に散った画学生の遺族の家を訪問した人だった。

それゆえ野見山さんの絵はその思いに濁りがない。
野見山さんの絵ほど自分の好き勝手に純粋な気持ちで描いた絵はないと私は思っている。



早稲田の私の恩師故坂崎乙郎先生(芸術学教授)が人生をかけて応援していた画家の鴨居玲

私の人生全てを通して絵の心得を示してくださった野見山暁治

二人とも私はあえて面識を持たなかった、

この二人は絵の考え方もキャンバスの中も真逆だったが、両人とも私の道しるべだった。



      鴨居玲 夢候よ 1970年代前半

    







ちなみに野見山さんと鴨居さんはフランスで交流が少しあり、鴨居玲のポンコツ車を譲り受け、絵を描きにでかけたりしたそうだ。




     



さようなら 野見山さん またいつか・・・合掌