洲之内徹さんのこと




            2002年7月4日

            洲之内徹さんの眼


            先日、ジェイソン.モネの絵のことを書いた際、ふと彼の絵を日本で紹介できないだろうか、
            と考えたが、どうしても、適当なギャラリーのオーナーや画商さんが思い浮かばない。
            彼の絵は「絵好きの絵」であるから、不景気の日本ではとうてい採算が取れないだろうと思って
            しまう。採算の取れない絵を扱う画商さんは、今の日本では画商さんとして失格らしい。今どきは、
            もう相当名前の知れ渡っている絵描きか、誰でも分かるスーパーリアリズムの絵描きくらいしか、
            本気できちんとした企画展などしてもらえないのである。やはりまず、「売れる」そして「知名度」で
            決める。つまり、する前から成功することが分かっている企画展が中心になっていく。
            自分の眼を信じ、賭ける。というギャラリーは意外に少ない。

            こういうことを考えるたびに、私は日本の美術市場の閉鎖性に打ちひしがれる。

            あれはもう 12,3年前になるが、私はまだ若く、東京で中学校の先生をしながら、絵を描いて、
            細々と発表していた。大学を卒業してすぐに、恩師の坂崎乙郎先生が急逝されて、私は自分の絵を
            見せるべき確かな「目利き」を失っていた。坂崎先生は美術評論家としてたくさんの著書があり、
            活躍もされていたが、同時に「目利き」でもあった。

            普通、美術評論家といえば、絵のことが分かるのは当たり前なので、当然「目利き」だろうと思われ
            がちだが、ところがどっこい、それほど「目利き」でなくとも美術評論家という「職業」は成り立つのである。
            ある程度学問と経験を積めば、ある絵や作家について「それなりの筋道をたてた理屈」は言えるようになる。
            美術愛好家が「なるほど」と思うことくらいは文章がそこそこ書ける人ならばさほど難しいことではないので
            ある。そして彼らのほとんどが歴史上の画家やすでにある程度名前がある画家を取り扱い、評価するので
            ある。

            しかし坂崎先生はその姿勢が違っていた。、たとえ画家が高名で、権力を持っていても、実名で痛烈
            な批判をし、完膚なきまでに叩き、書き尽くすのが常だったし、それは大学の私たちに対する講義の
            中でも執拗に繰り返された。またそれとは別に、全く世間で名前が知れていない絵描きでも自分の
            「眼」に忠実に、「いいものはいい」と、励まし、時には展覧会も手伝ったりして、世間の評判や経歴を
            度外視して本当に「絵」そのものを見ようとした。そういう意味で「目利きの美術評論家」として稀有の
            存在だった。またそれゆえに、世間と折り合がつかず、常に孤立されて不安定な精神状態でおられた。
            しかし坂崎先生によって勇気づけられた無名の、しかし才能のある画家は少なからずいたに違いない。

            その坂崎先生が亡くなられてから2年ほどしたころNHKの番組「日曜美術館」で四方田草炎だった
            か、村山槐多だったかの特集をしていた。その時銀座の現代画廊という古ぼけた小さな画廊が映し
            出され、そこでひとりの老紳士がインタビューを受けていた。とつとつとさりげなくしゃべる彼の口から
            発せられる言葉には、その弱々しい発声とは反対に、何か、ある「力」があり、彼独特の「感覚に裏
            打ちされた目利きの趣」があった。私は直感で、この人にいつか会いたい、そしてもっと話を聞きたい。
            と思い、すぐメモを取った。「すのうち…とおる」
            まったく無知としか言いようがないが、私はその時はじめて洲之内徹という名前を知った。

            その少し前、当代随一の「目利き」と言われた青山二郎、小林秀雄、白洲正子たちに
            「今、一番の美術評論家」と一目置かれ、芸術新潮に「気まぐれ美術館」という名コラムを書かれていた
            こともこの時初めて知ったのである。そのあと私は貪るように「絵の中の散歩」「気まぐれ美術館」
            「帰りたい風景」「セザンヌの塗り残し」「人魚を見た人」と読んでいった。どれもが、美術評論家という
            よりは、ひとりの眼の利く絵好きの名文といった趣があった。いろんな絵描きやその絵とめぐり合って
            いくさまを、独自のなんともいえない味のあるひょうひょうとした文章で、、しかし書くべきところは「ズバリ」
            と切れ味良く書ききってあった。全体の印象としては、右脳を中心に使って書かれた不思議な文章でも
            あった。

            青山二郎の文章などもそうとう不思議な文章だが、洲之内さんも、その文章に、とらえどころのない奇妙
            な「魅力」があった。とても感覚的な文筆家だった。一般的に言われている「文人の書く美術エッセイ」と
            いうものとも少しずれる私は思っている。もっと作品との「一期一会」がある。しかし溺愛はしていない。
            妄想は抱かない。このバランス感覚は洲之内さんが「画商」を生業にしていたせいでもあると思う。
            誰がなんと言おうと自分の独自の眼を信じきるところは坂崎先生にも通ずるが、その文体や守備範囲が
            ぜんぜん違っていた。洲之内さんは終始、自分が関係した身近なものとして絵や画家を捕らえていた。
            そういう意味ではとても狭い世界のなかで棲息されていたのかもしれない。そしてだからこそあの特異な
            感覚が死なずに生きてこれたのだろう。もちろん洲之内ファンは、彼のあの感覚こそが真っ当で、「特異」
            ではない、というだろう。

             洲之内さんが若い頃に戦争の時代があり、思想的な「転向」があったことも、後の彼の独自の「変わった
             人生」を送らせることに繋がっていったと思う。いい意味で何か世の中を「捨てた」ようなところが文章から
             感じられる。戦争の終わった後も、戦中の忌まわしき記憶は洲之内さんを苦しめ続けさせたのかもしれ
             ない。だからこそ洲之内さんはあの四角い画面の中に自分の居場所と良心の置き場所を求め続ける旅を
             その後何十年もされてきたのだと思う。
              
             洲之内さんの著作を何度も読み返したあと、ある日私は意を決して現代画廊に行って彼に会いにいこう
             と決めた。別にすぐ絵を見てもらおうなんて思ってはいなかった。とにかく画廊に入って、そこの絵を見て、
             洲之内さんを見たかった。我ながら変な話だが、こんなすぐれた目利きの人と同時代を生きていることを
             確認したいと思っていたのだろう。銀座に行った私は現代画廊が今なにを企画しているのかを知るために
             とりあえず日動画廊に寄った。知り合いが勤めていたからである。しかしそこで聞いたのは、洲之内さんが
             2ヶ月ほど前に亡くなったというつらい報せだった。

             主がいなくなった現代画廊はとりあえず閉められてしまった、ということだった。信じられないと思って念の
             ために画廊まで行ってみたが、開いているはずもなく、静まりかえった暗い階段の向こうに現代画廊のドア
             の古い文字だけが見えた。

             このようにして私はまたしても「目利き」の人との縁を失ってしまった。
             1987年の暮れ頃だった。
               
             洲之内さんと晩年親交があった白洲正子が洲之内さんのことを書いている文章のほんの一部を最後に紹介し
             たい。

             『……周知のとおり洲之内さんは現代画廊を営んでおり、多くの無名の画家たちはそこから巣立っていった。
             そこは彼らが切磋琢磨する道場でもあった。そんなことを言うと洲之内さんは「大げさな」といって笑うかもしれな
             いが、芸術新潮に連載していた「気まぐれ美術館」を読めば、誰にでも想像のつくことであろう。
             そういう根城を失って、彼らはさぞかし困るだろうということと、似非芸術家や似非批評家が跳梁している現代の
             風潮に洲之内さんはたった一人で立ち向かっているように見え、彼がいなくなったら私たちはどうすればよいのか、…』
               
                                                         「気まぐれ美術館」文庫版解説より抜粋
               
             追伸:洲之内さんの文章のそれぞれについても今後、コーナーを新たに作って紹介し、
             自分の思うことも添えて書いていくつもりだ。
               

             

                                (麻生三郎が描いた晩年の洲之内さん)

                               
               






最初のページに戻る