第11作 寅次郎忘れな草
OPの夢目覚めシーン
「春雨じゃあ・・濡れていくか・・」の藁葺き神社
苦節5年 ついに新発見
再現動画 及び 現地調査レポート
注意:私のサイトは、スマホからではガタガタになり見れません。PCでご覧ください
■寅次郎忘れな草 OP
「春雨じゃ〜・・・濡れていくか・・・」の再現動画
https://youtu.be/JW7HFzHHBtA
第11作 「男はつらいよ 寅次郎忘れな草」 OP
おさく(さくら)たちに酷いことをする悪賢い金貸したちをこらしめ、
みんなに感動を与え、
おさくたちの元から足早に立ち去る寅
「お天道様はお見通しだぜ!」
「いよ!大統領!」
「日本一!」
「寅次郎!」
「いよ!後家殺し!!」
悪い金貸しを退治する時代劇の夢が終わって・・・
夢から現実へ・・・・
霧雨が降っている。
雷も鳴っている。
田舎の農道脇の小さな神社の社でうたた寝している寅
うたた寝の寅が起きる。
雨が顔を濡らし、起きてしまう。少し肌寒い。雷が鳴り続けている。
向こうで農薬を散布し、耕運機で作業している農夫もいる。
その向こうは赤い橋。と、川か沼・・・
ゆっくり立ち上がり背広を手でつかみ首まで閉じて寒がる寅。
雨を避けるためにかがもうとする寅
困った顔の寅、ふと見ると床下に番傘が置いてある。
喜んだ寅、ポン!ポン!と、柱に傘を打ちつけほこりをはたいて、
寅「月様、雨が…。」
「春雨じゃ!…」
バサッ!と番傘を開くと、ボロボロ。
寅「濡れていくか…。あーあー…、」
と、背広を手で閉じ、天を見上げて辛い目をする。
タイトルイン この土手は柴又側ではなく、千葉県松戸市矢切側
2011年1月ごろの取材 今は北総線鉄橋がある。 千場県松戸市矢切側の土手
■寅次郎忘れな草 OP
「春雨じゃ〜・・・濡れていくか・・・」の再現動画
https://youtu.be/JW7HFzHHBtA
ところで
「月様、雨が・・・」「春雨じゃ濡れて行こう」のセリフだが
『月様雨が… 』『春雨じゃ、濡れて行こう』
大正時代の行友李風(ゆきともりふう)作の戯曲「月形半平太」の主人公月形平兵太。
維新前夜の京。開国論者月形平兵太の死闘を祇園情緒たっぷりに
描く「新国劇」の娯楽時代劇。
長州藩士月形半平太は、
遊興に浮き身をやつすと見せて、
深く勤皇に心を砕くが、真意を理解できぬ同志の策略で新選組に斬られる。
昭和の戦前、戦後に映画も多く作られ一世を風靡した。
芸奴「染八」との恋もメイン。
若い舞妓「梅松」とのからみで『月様雨が… 』『春雨じゃ、濡れて行こう』の台詞は有名。
寅はこのセリフを真似ていた。
モデルは尊皇派の論客で土佐勤王党だった武市半平太(たけちはんぺいた)。
詳細に言うと、
福岡藩士月形洗蔵(1828年 〜1865年、37歳没)と
土佐藩士武市半平太こと武市瑞山(1829年 〜1865年、35歳没)を
モデルにした、行友のオリジナル主人公である
「春雨じゃ・・・濡れて行こう」のセリフのシーン↓↓
1952年 松竹映画 「月形半平太」
美空ひばり 市川右太衛門 山田五十鈴
https://youtu.be/iNSbjzmRccs
さてここからは、話はロケ地調査に戻って・・・
この第11作「寅次郎忘れな草」は寅の目立ったシーンの中では
最後に残された難攻不落の大物未解決ロケ地。
主なロケ地としては
リリーと出会い、栗原牧場で働いたあの北海道網走、
そしてラスト付近でリリーのお寿司屋さんを訪ねる千葉県五香駅そばがある。
しかし、このOPシーンはっほぼほぼなにもヒントになる風景が映っていないので
この5年間以上探しても探しても探しようがないのだ。
空気のあり方はあきらかに北海道ではなく関東地方の田園だ。
神社の社の向こうに田園が広がり、大きめの赤い橋が見える。
赤い橋から水辺が見える。
思いのほか水辺は広がりがあるのに高い土手がない。
橋の向こうは丘で鉄塔が続いている。
幸いにもこのロケ撮影には
寅さんのムック本である。
全作品パンフレットを集めて2冊の本にまとめた
「男はつらいよ大全」に
このロケ撮影のスチール写真が掲載されている。
↓
本編よりもスチール写真の方が、
ずっと多くのヒントがその鳥居や鳥居の額や燈篭に
彫られた文字によって残っている。
祀られているのは「水神宮」
このスチル写真の鳥居の額の中を見てほしい。
明治時代だとすれば縦文字で読むはず・・・
「水神・・・」
「千・・・」
この文字もかなりの第一級の物証と言えるだろう。
そして鳥居には「奉」 と 「獻」(けん)
明治時代ゆえに旧漢字で
現在では「奉献」(ほうけん)となる。
ヒントらしいヒントは
うっすら遠くに見える水辺、赤い橋、丘、 鉄塔、 大きな水田、電柱、
横に長い白い建物、神社の鳥居、灯篭、狛犬、石碑、
いろいろなお供え物、絵馬、社殿周辺にある小物。
この程度・・・橋、丘、もほぼほぼ遠くに霞んでいる。
こんなヒントではこの広い関東地方の湿地帯ではほぼ絶望的だと思われた。
これはさすがに、私の手にはとうてい負えないゆえに、
今から6年ほど前、笛を吹いてマグマ大使を呼んだのだった。
もちろん、みなさんご存知、あの人だ。
正義の使者マグマ大使こと所沢在住、長年の寅さん友達の「寅福さん」である。
寅福さんは、私たち仲間の間では、どんな難題も解決するので
「太陽にほえろ!」のヤマさんとも呼ばれている(;^_^A
寅福さんは私にこう言われた。
「水辺の土手が低いことから、
あの水辺は大きな池か小さな湖か沼だと思います」
なるほど!!
私は川もありうると思っていたが 洪水になりにくい湖や沼か!!
寅福さんはこのあと、お仕事の合間に、
ご自分の持てる能力をフル活動されて神奈川、千葉、茨城を
何年も探しまくられた。
ヒントが少ないゆえに、沼が多い湿地帯を中心に神社をローラー作戦で調べて行かれた。
なにぶん小さな神社ゆえにもちろんインターネットではあの神社の画像は出て来ない。
風景のイメージとして北関東の可能性が高いので
近くに大きな池か沼がある場所・・・・
しかし茨城千葉あたりにはかなりの沼や湖があり
その近くにも神社は相当数あるのだ。
その後、私もちょくちょく神奈川などを調べてはいたが
寅福さんはお仕事の合間合間に地道に
それこそこの赤丸囲みの中の湿地帯の百数十の水辺の神社を
ストリートビューや航空写真で調べて行かれた。
茨城の牛久沼、霞ヶ浦、
千葉の印旛沼、手賀沼・・・・・
そしてついに調べ始めて5年目の夏
手賀沼の赤い橋(手賀大橋)と背後の丘、鉄塔に
行き着かれたのだった。
橋も丘も鉄塔も本編に似ている!!
ネット検索で出て来た、かつての赤い手賀橋(現在は手賀大橋)↓。
手賀沼の西と東の間の部分はこのように土手が盛られ、道が走り、
水の流れる部分は意外にもとても狭かったのだ!!
後に1997年完成の現在のグレーの大きな橋に変えられ、
西と東の間も大きく広がったのだった。
ちなみに、これ↓↓は寅福さんからいただいた地図画像。
今までに数年かけてストリートビューや航空写真、ネット検索などで
探された千葉県茨城県一帯の神社の場所である。
青いマークがすでに調べられた神社。赤いマークは丘を走っている鉄塔の流れ。
神奈川には沼地や湖が田園のそばにはほとんどない。
千葉と茨城には湿地帯が多い。
それゆえ、この地図の中にあの神社が存在する可能性があるのだ。
そしてその果てに、この手賀沼周辺にも手を伸ばされたのだ。
(黄色い囲み)
これを見てもわかると思うが物凄い執念である。
そしてこの手賀大橋の赤い橋と丘の田園地帯の周辺神社を
片っ端からストリートビューやネット検索でローラー作戦をされて行った。
そして高野山新田脇に来た時、ストリートビューでのある神社に眼が釘付けになる。
ストリートビューではこのような鳥居が見える↓↓
社殿の背後にそびえる楡(ニレ)の大木もこの写真では今も健在。
社殿も田園も
さま変わりはしているが、
全体の空気が似ている!!
特に鳥居と燈篭は同じに、見える!!
このスチール写真は本当に役立った。
映画のスチール写真と現在のこの鳥居のアップを比べてみる↓↓
汚れや苔の付き具合などは全て洗われてしまっている。
まったく同じ文字の形だ↓
こちらもまったく同じ文字の形↓
「奉獻」(ほうけん)は明治時代ゆえに旧漢字で
現在では「奉献」となる。
8月2日当日 現地で撮影した灯篭写真↓
上の映画スチール写真と比較してみた。
全く同じ「常夜燈」の特徴!!
鳥居、燈篭など、石の中に彫った文字が
これほどまでに同じということは・・・・
ここがこの千勝(ちかつ)神社が
撮影ロケ地だと決定した!!
長い長い調査の日々の果てに遂に・・・!!
現在狛犬が飾られているが、文献によると昔からこの神社に祀られているようだ。
しかし本編にも本編のスチール写真にもどこにも狛犬が写っていない・・・
と、思っていたら、スチール写真の中の僅かに端っこに何か顔のようなものが見える!!
わずか右端に狛犬の目と鼻が写っている!!↓
サイトに載っていた現在の狛犬と比べて・・・同じだ!!
資料では道路拡張のため1979年に社殿や鳥居の位置が沼べりから移動したと
書かれていたが、事前の調査では、社殿は更地になった後、
ほぼ変わりなく現在の場所にそのまま新築されたようだ。
1976年の千勝神社の位置 道はまだ農道でバイクや牛しか通れない道幅だった。
たんぼや道は黄色の点線でレイヤーで完全に同じ箇所をなぞっている。
1979年に道路拡張されたことにより道幅は広くなり、車が通れるようになった。
神社の社殿も建て替えられたがその位置はそのままだったことがわかる。
上記の通り寅福さんが発見されたこの場所は、
私の事前の調査も加味されて
90パーセントはこの
千葉県我孫子市高野山(こうのやま)地区の
千勝(ちかつ)神社
が、ロケ地だと決定した。
さてあとは現地調査とインタビュー取りだ!!
寅福さんとLINEで打ち合わせしてお互いの都合の良い調査日を8月2日とした。
息子の龍太郎も大学がこのご時勢でzoomゼミ、そして日曜日は休みゆえに
動画撮影を手伝ってくれることになった。
私の自宅から40分で我孫子駅に着くのだからけっこう近い。
2020年 8月2日 快晴 ロケ地調査の日
私と寅福さん、そして息子の龍太郎とで金町から常磐線の電車で35分の我孫子駅で降り、
まずは歩いて7分の場所にある我孫子市民図書館に行き
当事の住宅地図や千勝神社のことを1時間半ほど調べる。
このロケ地、高野山地区の「千勝神社」の記述があった↓
■「道路わきに遷宮」と書かれてあるが、実際は、数メートルだけの移動。
これは違う書籍だが上記の内容を踏襲しているのがわかる↓
もう一度まとめると↓
元禄2年(1689) 水神社創立
嘉永4年(1852) 千勝神社を境内社として6月信徒8戸で創建
明治31年(1898)に石造鳥居及び狛犬が造立
文章でそのまま読むとこうなる↓
元禄二年(1689)の水神社創立にはじまる。
当時の氏子は五戸で、新田の人びとがまず水神を祀ったわけである。
明治の「神社明細帳」には、「水神社、社殿間数方弐間」とある。
また、千勝神社は境内社で、嘉永四年(1851)八月信徒八戸で創建した石造の祠であり、
同じく石造の庚申塔が明治十三年二月二十八日信徒八信徒で創立されたと記載されている。
鳥居の石額に「千勝□□、水神□」と刻まれている。
これによってにると、当初の水神社に代わって、千勝神社が優位になってきたということであろう。
寛永年間(1661年〜73年)には手賀沼沿いに高野山(こうのやま)新田が開かれ、
後に高野山村に千勝神社が建立され、沼には渡し舟(高野山渡し)があった。
これは上記の鳥居の額の中の文字とピッタリ一致!!
撮影当事の航空写真。沼の間は狭く、手賀大橋は小さかったのだ。新田が続いていた。
現在の航空写真。↓
かつて一面の稲田だった高野山新田は、このように駐車場、公共施設や畑になっていた。
赤丸が千勝神社社殿。黄色い線はロケ地のカメラアングル。
2007年の住宅地図
ロケ撮影当事に近い1976年の住宅地図
新しく道路が神社の前にできたあとの1982年の住宅地図
道ができる前とまったく同じ位置に神社があるのがわかる。
我孫子市市民図書館の前で記念撮影
8月2日 午後2時ごろ 我孫子市高野山地区の千勝(ちかつ)神社に到着。
到着動画 https://youtu.be/41Q5saPqnas
なんとなんと鳥居はこんなにも小さかった!!1メートル65ほどしかないので
現代では大抵の人はやや頭を下げてくぐらないといけない。
1979年の鳥居が数メートル後方に移動した際に、
鳥居の額は新しい物になっている。↑
物的証拠は事前調査の通り、
鳥居の文字と灯篭の文字
そしてこの現地調査にて追加の物証「灯篭の修理」
灯篭の模様は表と裏が「三日月」と「満月」↓
しかし斜めに欠けてしまっていた。
上にも書いたが常夜燈の文字が今も同じ。
上下を逆にし、欠けた部分を修理したことが分かる。
修理にはセメントを使っている。
そして現在は満月を鳥居の方に向け、三日月を社殿の方に
向けている。
これは現地に来て始めて判明した大きな物証なのだ。
燈篭の全体の形も完全に同じ!
鳥居の文字検証!↓
現地でも鳥居の文字を撮影してみた。
全く同じ彫り方だった。鳥居は明治期のまま使われていた!。
鳥居の裏側に「明治」の文字も!
灯篭の方向が変えられていることを話し合う私と寅福さん↓
手前はこの神社を再建した時の人々の名前や
関東一円に広く定着している湯殿山、月山、羽黒山信仰の石碑などが置かれている。
鳥居から社殿までの距離も鳥居を移動させたことによって
長くなり間が持たなくなったのか、石碑がズラーっと並んでいた。
社殿の中に飾ってある額の中の写真(昭和34年)
湯殿山神社、月山、羽黒山神社に参拝した時の記念。
社殿の新築記念の幕
神様は社殿の中の奥に鎮座しておられます。
上にも書いたが、
千勝神社は建て替えられた1979年以降とほぼ同じ場所に社殿があるが、
鳥居と社殿との距離は1979年より昔の方がずっと短かったと思われる。
撮影時は社殿と鳥居との距離はすぐ近くだったのだ。
社殿は建て替えられる前のものとはかなり違う要素が多い。
社殿の裏に聳えていた楡の木は切られていた。
神社真裏にお住まいの岡田さん宅におじゃまし、
この木のことをお伺いしたら
あの木は「楡(にれ)」で、岡田さんの私有地にあり、
やはり大きくなって危険になってきたので伐採されたそうだ。
根っこだけが残っていた。
数年前のストリートビューでは岡田さん宅の楡の木は健在だった↓
2012年の時点ではこのように楡の木は健在だった↓
(ストリートビュー2012年)
社殿の横は大きな道路になっており、向かい側は「水の館」や
そのための広い駐車場ができて
当事の高野山新田のあの面影はもうない。
撮影当事の社殿から見えた高野山新田の田園地帯は今はほぼなくなり、
このような施設や駐車場になっている。
それゆえ、ここの場所の「高羽アングル」には手賀大橋も沼も見えないのだ。
■寅次郎忘れな草 OP
「春雨じゃ〜・・・濡れていくか・・・」の再現動画
https://youtu.be/JW7HFzHHBtA
そして本編の左向こうに見える赤い手賀大橋だが、現在は道路拡張に伴い
田園が埋め立てられ「水の館」や駐車場などが建設されたゆえに
このように鳥居の上から撮影しても↓まだこの橋は見えないのだった。
このように、今はもうまったく田園も大橋も水辺も見えなったのだった。
左の大きな「水の館」のビルからきれいに橋が見える。
このように、風景は激変┐('〜`;)┌
千勝神社の位置
〒270‐1146
千葉県我孫子市高野山新田190付近
ストリートビュー ↓
https://goo.gl/maps/aVrxvSFyrc6hRFaGA
千勝神社向かいの「水の館」3階から撮影した手賀大橋と手賀沼と背後の丘と鉄塔
沼の東西を分けていた狭間の幅も広くなった。
昔はこの沼べりに「高野山の渡し舟」があったそうだ。
赤い丸は千勝神社の社殿の屋根と鳥居
橋はこのように長く大きなものに変わったし、橋の両端も突起した地面が全て取り払われたが、
向こうの丘も鉄塔も撮影時と同じ!!
映画本編に見えていた建て替える前の赤い手賀大橋
赤い橋、丘、鉄塔が同じ!
下から見たらこうなる。手賀大橋と手賀沼が見える。ここからだと映画のアングルに似ている。
そして、もう一方で 生き証人が見つかった!!
【絶対的証拠 貴重な証言をつかむ!】
上記のように鳥居や燈篭の文字により「物証」は確定した。
残るは当事を知る「証言」だ。
そこで、神社のすぐ横にお住まいで、
生き証人の岡田貞さんにロケ撮影の時のことをお聞きした。
■岡田貞さんは、なんとなんと
渥美さんが演技をしている鳥居のすぐそばで
十数人の近所の人たちとずっと見学していたそうだ。
その時の記憶によると、
■なんと、あの藁葺きの屋根は撮影当日山田組が
急遽赤いトタン屋根の端に取り付けたものだったらしいのだ。
元々はあの社殿の屋根は赤いトタン屋根で藁葺きではなかったという
衝撃の事実!レトロな社殿の風情をだすためだったのだろう。
■事前にロケハンティング班が現地で下調べをしていたものの、
山田組本隊は撮影当日、
ぶっつけ本番で、岡田さんのご主人の昭治(しょうじ)さんに
いろいろなお願い事をしたのだそうだ。
■そして、なんとなんと
あの本編の霧雨は、
映画のために人工的に降らせたもの!!だそうだ。
近所の水道や、田んぼのポンプ、沼から引いたものなどを
合体させて降らせたそうだ。
そしてトラックの荷台から大きな扇風機で、霧雨のような
舞うような横向きの煙るような雨にしたてたそうだ。
■背景で農薬のようなものを白い煙のように撒いているが、
あれも山田組が岡田さんの知り合いの方に
お願いして作業してもらったらしい。
■良く見ると耕運機で田んぼの中で作業している農夫も動いている。
あの農夫はなんと岡田さんのご主人の岡田昭治(しょうじ)さんで、
神社の飾り付けや、農作業など
山田組の要望に応じてくださりいろいろ動いて協力されたようだ。
■渥美さんは岡田さんの尽力に感謝され、
その場で色紙に自分の名前をサインして岡田さんにプレゼントされたそうだ。
物証以上にこの岡田貞さんの証言こそが
最も説得力のある「証拠」と言えるだろう。
岡田貞さんはもう88歳だが、記憶はしっかりされていて、いろいろなことを覚えておられた。
息子さんの岡田康宏さんとお母さんの岡田貞さん。貞さんは昭和8年生まれ。撮影当事40歳過ぎだった。
インタビューに応じてくださった岡田貞さんのご主人岡田昭治さんが
山田監督の要望に応じ、本編で耕運機で土を耕している。↓↓
ロングインタビュー動画
https://youtu.be/p__82nUbo6o
岡田貞さんの息子さん(岡田康宏さん)夫妻にもいろいろお聞きした。
偶然にもこの聞き込みの1週間ほど前に自転車でここから
柴又帝釈天に行って来られたそうだw( ̄▽ ̄;)w
以上、もう200パーセント高野山地区の千勝神社だと決定!!
実に有意義なロケ地調査だった。
岡田さんの息子さんによれば、
当時は沼と田んぼの高低差がほぼなく、水害も時にはあったらしい。
このあたりは高野山地区と言い、これらの田んぼは干拓によって
江戸時代から新しく作られたものなので「高野山新田」と呼ばれていた。
10年ひと昔と言うが、もう4つも5つも昔、この、のどかな湿地帯の田園風景を
探しあてた山田組スタッフたちの優れた感覚に感動。
■寅次郎忘れな草 OP
「春雨じゃ〜・・・濡れていくか・・・」の再現動画
https://youtu.be/JW7HFzHHBtA
エピローグ
このような寅福さんの誰もできないような偉大な発見も、
気が遠くなるような何年にも渡るPC上での航空写真やストリートビューを使ったローラー作戦と、
きわめて地道な検証、
時として国会図書館やロケ地と思われる地元の図書館で資料や地図を探し、住宅地図で細部を検証し、発見する作業が
あってのことなのだ。
でも一番は彼のセンスだろう。彼の洞察力とひらめきなんだろう。
そして、最後は現場での検証と聞きこみインタビュー。
このように
たったひとつの未踏破ロケ地の解明に寅福さんや私をはじめ、いろいろな方々の協力や地道な検証が
3年、4年、5年と続いて
はじめて実を結び花を咲かせるのだ。
今回の「春雨じゃ〜 濡れていくか・・」のシーンは渥美さんの芝居がしっかりあるシーンの中の
ほぼ最後の未解明ロケ地だったゆえに、私も寅福さんも現地で感慨深く調査し、聞き取りをした。
作品制作で多忙な息子が参加してくれたのも、ここがもう寅がアップで登場する未解明地としては、
全48作品中、最後の感動的なシーンだと知っていたからだ。
これで、全48作品中、車窓風景やちょっとした風景描写は別にして
登場人物が芝居をするシーンは、ここ10数年で、ほぼ95パーセントは解明された。
ロケ地調査のスペシャリスト、長年の寅さん友達の小手寅さん、ちびとらさんの成果もかなり大きい。
しかしそれでも、未だ難攻不落の「さくらが歩く青観の邸宅」、「寅が入っていく田中絹代さんの明野の長屋門の家」、
「歌子ちゃんの実家の坂道」は、まだ解明までは至っていない大きな未解決ロケ地なのだ。
寅福さんなら・・・、
残り全ての上記の未解決ロケ地を調査し、糸口を見つけるかも・・・、
そしていつの日か彼によってこれらの大物未解明ロケ地を完全に解明できる日が来るのではないか、そんな気がする。
将棋の藤井聡太棋聖は100年に一度の天才。将棋に必要なあらゆるセンスと能力をすでに兼ね備えている。
私は同じ理由で、寅福さんはロケ地発見調査の真の天才だと思っている。
彼はロケ地ハンター世界の藤井聡太なのだ。
(彼は藤井君のように若くはないけれど ;^_^A )と、
十数年彼の調査を間近で見て、数十箇所の絶対不可能な難攻不落ロケ地発見に次々に驚き、
現地調査を何回も何回も共にしてきて今、しみじみそう思う。
■寅福さんの千勝神社発見に関するブログ↓↓
「ロケ地遂に発見!@」
https://love.ap.teacup.com/torafuku/232.html
「ロケ地遂に発見!A」
https://love.ap.teacup.com/torafuku/233.html
おしまい。
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