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2005年3月27日 親離れの季節(猫はつらいよ)
雨が10日降らない。いよいよ雨期が明けるのかな…・。
そろそろ大人猫に近づきつつあるお兄さん猫のプリンはここ2週間ほど、昼間はいつも遠出をして行方不明。
どこで何をしているのか分からないが、恋人探しかもしれない。
それに、時々バリ料理を全身に匂わせて夕方遅く帰ってくるので、お寺のお供え物を失敬しているのかも…。
また、生傷をあちこちに作って夜に戻る時もある。これは、たぶん恋人争いか縄張り争いの際のオスどおしのケンカによるもの。
青年期のオス猫は、実に生傷が絶えない。生後3ヶ月の弟猫達はまだまだ敷地から遠出する甲斐性が無く、いつも
母親猫のマリの付近をうろうろしている。
人間も青年期にこういう時期がある。何も恐れない、ただひたすら野うさぎのように反射神経だけでやみくもに駆け回る時期がある。
私もいろいろ無茶をして傷だらけの人生だった。車寅次郎も15歳で家を飛び出し、あてもない放浪の旅が始まったのである。
男はつらいよだ。 プリンの場合は「猫はつらいよ」となるのかも。
荒井由実の詞がふと頭をよぎる。
白い坂道が空まで続いていた
ゆらゆらかげろうが あの子を包む
誰もきづかず ただひとり
あの子は昇っていく
何もおそれない そして舞い上がる
空に憧れて 空をかけてゆく
あの子の命はひこうき雲
っとここまで書いたら、これを後ろからちらっと読んでいた息子が、なにやらサラサラっと10分くらい紙に書いていたので、
見せてもらうと今、話題にしているプリンのことを書いていた。スキャナで取り込み、ちょこっと色を入れさせて、
そのままこのオチのない即興4コマ漫画をバリ日記に載せることにした。
この漫画で、プリンが鼻歌を歌いながら旅立っているが、この鼻歌は、私は「男はつらいよ」の主題歌だと勝手に思い込んでいる。
息子には何の歌かは聞いていない。
絵でも漫画でもなにげなくサラサラっと気ままに描いたときのほうが線が生きているから不思議だ。
しかし、この「なにげなく」が実に難しい…。
龍太郎 作 「猫はつらいよ」
2005年3月18日 2つのジャングル
息子の体調は、1週間ほど前から完全復活したようで、近所を走り回っている。ようやくここへ来て安心。
熱が下がっても、しばらくは手に少しアレルギーが残っていたので心配していたが、それも数日前に
無くなった。
それにしてもバンコクは年々高層ビルが増え、昔ながらの2階屋庭つきの一建屋が消えていく傾向にある。
私が6年前から定宿にしているインド系のアパートビルからの眺めも毎年様変わりして、ある意味東京よりも
混みあっているような気がする。下の写真↓を見る限りではまさにコンクリートジャングルだ。
しかし、街の中を歩いてみると、屋台などはまだまだ活躍しており、値段もほぼ六年前から変わっていない。
先週も書いたが、最近ではショッピングセンターの食券制屋台がどの街でも幅を利かせてきたので、路上の
屋台は押され気味の傾向にある。値段がほぼ一緒で、エアコンが利いていて、品数が豊富で、清潔感がある
現代的なショッピングセンターにバンコクのおしゃれな若者が集まってくる。とにかく年々バンコクは暑くなっている。
昼間は35度ははるかに越えている感じ。
でも、おもしろいもので、夜でも30度をちょっと越す灼熱のなまぬるい風に吹かれながら、歩道で営業している屋台で食べて
みると、これが意外に美味いんだな、なぜか。妙に臨場感が有って、今、現在を生きてるなあって感じ。でも、体力のない
方にはお薦めしません。やっぱりすごく暑いですから。
バリに帰って、自宅に戻ってみると、今度は本物のジャングルの中だ。蛇もサソリもオオトカゲもいる世界。
川が真下を流れ、周りが田んぼだらけなので昼でも30度に行かず結構涼しい。夜は25度。毛布をかけないと冷えるくらい。
バンコクのコンクリートジャングルとバリの本物のジャングル。正反対だがどちらも魅力がある。
絵の売れ行きが安定していたら半年ずつ住むのになあ。用の美でもない「好き勝手に描いた絵」に過大な期待は禁物。
バリも日本も不景気だからしょうがない。
景気上昇の上海で「バリの風景」の個展をやろうかな。
左はいつも泊まるアパートから見た、バンコク中心地。ビルビルビル…。
右はバリの敷地に生えている竹に朝日が射しているところ。(龍太郎撮影)
二つの両極のジャングル。どちらも凄く魅力がある。
宿のすぐ近所でおやつを買う。左は、一見陶器を売っているように見えるが、実はうつ伏せになっている容器の中に
ココナッツ生菓子が入っていて。それをその場で食べる。横の上を向いている容器たちは食べたあとのカラ。
右は、ローカルなクレープ屋さん。中にくだものやクリームが入る。生地を空中でくるくる回しながら大きくしていく。
おかずにもなるシュウマイ。そのままおやつに食べてもいい。
右はココナッツミルクや豆で作ったバンコク生菓子。素朴な味わい。
担いでいる味のある籠が魅力的。どれも一人前50円ほど。
風船売り。これはさすがに買わなかったが、つい写真に撮ってしまった。
2005年3月10日 ガルンガンとニュピ
3月8日にようやくバリに戻ってきた。滞在中息子が38度5分の熱を出してしまったので、大事を取って滞在を一日延ばした。
熱帯病だと飛行機に乗れないので宿のそばのバンコクで最も大きな病院で、診察を受け、血液検査をしてもらった。
それにしてもこの病院は凄い。まず日本人の内科医師が常勤している。受付も日本語専用の受付があり、看護婦さんも
日本人が常勤。受付で説明してくれるタイ人も日本語がほぼネイティブなくらいに上手。他に受付に日本人スタッフが2人。
入院した場合の個室を見たが(写真参照)、まるで外資系大型ホテルの大きめのデラックスツインルームって言う感じ。
入院中の食事も日本食などをいろいろチョイスできるらしい。入院費は個室代、診察代などで大体一日1万円から1万5千円。
タイの庶民の人たちからみると絶対払えないような金額。(ちなみに小さな病院の大部屋だと一日2000円から3000円ほどですむ)
病院のロビーは大きなホテル並でファ−ストフード店や高級日本食店、ブティック、ネットカフェなども入っていて、病院とは思えない。
もちろん、MRIや最新手術医療施設と器具、カプセル内視鏡、移植手術などにも対応できる海外の医大を卒業したスタッフたち。
いやはや、バリ島の病院とは雲泥の差だった。旅行保険に入っていればキャシュレスでOK。ちょっとした風邪でもわざと入院する
外国人も少なくないのは頷ける。なんせ旅行保険さえ入ってればキャッシュレスなのだから。
こういういたせり尽せりの医療施設を見てしまうと、近々バンコク郊外に移住しようかな…、なんて思ってしまう。それくらいバリの医療は
遅れている。盲腸の手術が限界っていったところか。MRIもまだない。とほほである。
医療もそうだが、なによりもタイは食文化が発達しているので食べものが何でも美味いし、安い。欠点は、空気が東京並に悪いことと
賃貸の場合、家賃がバリの2倍から3倍という点。しかし、バンコクには3万5千人の日本人が長期滞在しているので、日本人用の店や
施設が充実している。これはそうとうの魅力。日本へも4時間で着く(バリは7時間)。ビザもインドネシアより取りやすい。タイという国自体
もインドネシアより経済の安定度が高いのと国民性がタイ人の方が日本人に近い。
ただ、絵を描くということに限って考えれば、やはりバリの方が絵心が沸きやすいかも…。しかしバンコクもエキゾチックで、なかなか
モチーフには事欠かないとは思う。毎年バンコクに行くたびにタイへの移住を考えてしまう。バリはすでに15年住んだし、そろそろ本気で
考えようかな…。もちろん最初の数年はバリが半分、バンコクが半分っていう感じになるだろうが。
まあこんなこと呟きだしてから実はかれこれ三年が過ぎている。ようするに先立つものがなかなか貯まらないのだ。難しい〜。
ところで、幸い息子はデング熱などの危険な病気ではないようだったが、現在バンコクでもインドネシアでも季節的にデング熱がそうとう
流行っているので、安心は出来ない。現在バリに戻ってからも、一応安静にさせている。
そして、ようやく、バリに戻ってきたら、いきなりガルンガン(お盆)到来。翌日アグンライの家族にラワ−ルをもらって食べまくった。
そのうえ、なんと明日はバリの新年である「ニュピ」。
この「ニュピ」という日は外出はおろか、夜に灯りをつけてもだめ。という徹底的に静かに過ごす日なのだ。もちろんバリ中で1軒も店は開いて
いない。空港も全て閉鎖。何でもかんでもストップ。車は24時間でどの道路も1台も通らない。夜は完全にどの敷地も真っ暗。昔は食事も出来
なかったらしいが、近年はそれは黙認。
いつもの年なら、ご先祖様が地上に降りてくるガルンガンと、新年のニュピは一緒には来ないのだが、今年は暦の関係で一緒に来てしまった。
慌しいというかなんというか…。
だから今日はバリ歴でいうと「大晦日」。近隣の村々では若者が魔除けの化け物である「オゴオゴ」を担ぎ夕方から練り歩いていた。
私や宮嶋はバンコク帰りで疲れているし、息子もようやく熱が下がって病み上がりなので、今年はオゴオゴ見物を自粛。
このあと夜中じゅう爆竹がどの村でも鳴りまくる。私の敷地でも渓谷の向こうからひっきりなしに爆竹の音が何時間も続いている。
そして夜明け前の朝5時と共に完璧な静寂が24時間始まる。「ニュピ」である。このように動と静が隣り合わせで訪れるのがいかにもバリだ。
私はこのニュピの日が1年で一番好きだ。1年中ニュピでも一向に構わない。
↓これは上記病院の入院時の個室の一例。下手な街のホテルよりもずっと
居心地がよさそう。食事も日本食を選べる。付き添いの人も寝ることが出来る。
バンコクは食べものが何でも美味い。そしてなによりも安い!辛い料理が多いが、バリも辛さでは負けてないのでOK。
頻繁に利用している宿のそばのショッピングセンター内にある食券制の食事コーナー。タイのあらゆる料理があり、だいたい
12〜15の店が出店している。
左はタイ料理には欠かせないグリーンカレーやレッドカレーをはじめとしてなんでもある総菜屋さん。ご飯つきで約100円。
右はタイ人なら誰でもいつも食べるパパイヤサラダ「ソムタム」庶民料理の代表。何皿でも食べれる。
左はココナッツミルクのかき氷にトッピングできる20種類以上の バンコクの足。おなじみ、オート三輪の「トゥクトゥク(サムロー)」。
くだものやタピオカ、寒天、アイスクリーム。どれも実に美味い!
風情があって面白いが、値段がメータータクシーとあまり変わら
あとを引く味。3つほどトッピングできて60円。 ないので、ちょっとした近場の時のみに乗る事が多い。
近場だと80円くらい。
2005年2月25日 ワヤンクリットの満月
23日は満月だった。久しぶりに夜、テラスでただただ月を見ていた。
ブイルース.リーの言葉「 Dont think.Feel 」が蘇る。
私の家の前に住んでいるおじいさんはグンデルワヤンの名人。このHPでも「バリの音」のページの中で紹介している。
彼の音はなんともまろやかで、品がある。宗教儀式の際にワヤンクリットという影絵劇が神様に捧げられるが、その際、後ろで影絵師に
合わせて楽器を演奏する。それがグンデルワヤンである。深夜に始まり、3時間以上続く長い「物語」である。今夜の月は、敷地の木立を
ワヤンクリットの影絵のように浮き立たせ、バリらしい幻想の世界を創りだしていた。月の光に力がないと、こうはならない。バリの夜は暗い。
だから月が明るく、そして月の影はくっきり深い。こんな夜はなにをするでもなく、ただ長椅子に寝転んでいる。
テラスを真っ暗にして、月光による木々の影を眺めていると、遠い昔、東京で学生生活をはじめた頃、右も左も何も分からないあの春に聴いていた、
城 達也さんの声を、なぜか思い出してしまった。FM東京.そう、あの、ジェットストリーム。
遠い地平線が消えて
深々とした夜の闇に心休めるとき
遥か雲海の上を 音もなく流れ去る気流は
たゆみない宇宙の営みを告げています。
満天の星をいただく果てしない光の海で
豊かに流れ行く風に心を開けば
きらめく星座の物語の囁きも聞こえてくる
夜のしじまのなんと饒舌なことでしょう
光と影の境に消えていった
遥かな地平線も瞼に浮かんでまいります
あまりにも懐かしい…。
27日からバンコクに行って参ります。
宮嶋紀子が参加した『スマトラ アチェ地震被災者のためのチャリティエキジビィション』(Seniwatiギャラリー企画)を取材に行った。
彼女が出品した絵や今回の展覧会の様子、セニワティギャラリー内の雰囲気などが、このサイトの宮嶋のページにアップされている。
こちら[スマトラ アチェ地震被災者のためのチャリティエキジビィション]からどうぞ。
最近は息子も写真技術がかなり向上してきたので、時々撮影を彼に委託する。粘っていい写真を撮ってくれることも、しばしば。
息子は三脚を立て、粘っていいものを何枚かものにしていた。これはその中の1枚。
2月27日から8日間、仕事でタイのバンコクに出かけます。
それゆえ、「バリ日記」も、「男はつらいよ」もバリに戻ってから更新、ということになります。
どうか御了承ください。次回バリ日記更新は、だいたい3月9日になる予定です。
2005年2月20日 あの頃の風
14年前の私の絵葉書が辞書の中に挟まっていた。この絵葉書は全部売ってしまったので、もうないと思っていたのだが、なにかのひょうしに
栞代わりに使ったものが残っていたのだろう。これは、当時バリの屋根瓦や素焼きの器を一手に引き受けて村ぐるみで作っていた南部の奥地の
ペジャテン村が気に入り、数日滞在し、雰囲気のある作業小屋を描いた。それを日本での個展の時に絵葉書にしたと記憶している。村人が
珍しがってわんさと集まり、もっとこうだああだと私の絵にちゃちゃを入れていたことを、昨日のことのように思い出す。あの滞在は暑い日が
続いて、雨も降らず、随分日焼けしてしまった。まだ2歳の小さな幼児だった私の息子もこの村の職人さんたちによく遊んでもらっていたものだ。
あの頃はバリに移住したばかりで、どこもかしこも珍しく、いつもあっちこっち旅をしていた。キャンバスと絵の具をたくさん車に積み込んで、
島中をぐるぐる回っていたものだ。今こうして絵を見ると形が甘いなって思うが、あの頃の熱い思いも伝わってくる。
この絵にはあの時の風が吹いている。だからあの時でないと描けない絵だ。この時期の絵はたくさん売ってしまったので今となっては少し寂しい
気がする…。最近は、逆に以前のようには売れないので今度はちょっと生活が苦しくなってヒーヒー言っている。
なかなか中庸な所に収まってくれないものだ。(当たり前)
当時は、こんなにバリ滞在が長くなるなんて、考えもしていなかった。ただ、今この時を大事に絵を描いていたような気がする。もう見納めに
なるかもしれないそれぞれの風景を、強い陽射しと風の中でキャンバスに次々に描きこんでいったことを記憶している。
近年はほんとに遠出をしなくなった。せっかくバリにいるのだから、短い旅行をすればいいのに、とわれながら思うのだが、ほんの時たま、
前々から気に入ってよくモチーフにする東部の先住民の村(テンガナン村)だけは描きに行くが、それ以外の土地は、もう全く行かなくなった。
車で30分で海まで行けるが、全然行かない。山も1時間くらいで中腹までいけるが、これも行かない。この島の州都であるデンパサールでさえ、
パソコンが故障した時しか行かない。自分が自宅から歩いていける所で絵を描くことがほとんど。しかし、それとは反比例して描く枚数や質は
上がっていると勝手に思っている。御気楽なものである。ひとは常に今、現在の自分に都合の言いように考える生き物なのかもしれない。
(ペジャテン村の午後 1991年 油彩 F12号)
2005年2月13日 二つの死と二つの生
6年程前から、日本からの国際郵便を、毎回家まで持って来てもらっている隣村出身の郵便屋さんが先日亡くなられた。急死だった。
デンパサールの郵便局から帰って、ジャワ―(マンディ)を浴びて、休憩している時に倒れた。私より若い四十歳前だった。
彼のお陰でこの6年間、不当な関税を一切取られなくてすんできた。優しい人だった。そして、つい数日前、前のアグンライの家の
親戚のおばあちゃんが亡くなった。だいたい70歳くらい。バリでは人が亡くなるとまず、その村の大きなお寺にくくり付けてある木魚の
おばけのような木を打ち鳴らす。朝であろうが夕方であろうが鳴り響く。だから私の村も含め近隣の村々で人が亡くなると、コンコンコン…
と木を叩く音が聞こえて来るのですぐ「あ、今誰かこの村で亡くなったな」っていうふうに分かる。村の寄り合いなんかの時は違うリズムで
打つ。そのあと、その日中に村人総出でとりあえず土葬する。(火葬は土葬の後、1年後あたりに共同火葬することがほとんど)百人以上の
人々が、それ用の服装をしてその儀式を手伝うので、すぐに誰かが今日亡くなったことがわかる。埋めた後、全員で、地べたに座って線香を
焚きながら祈る。もちろんその後の火葬の時は大々的に何日も前から準備をするし、当日も派手に儀式が繰り広げられるので、目立ちまくる。
バリでは実に頻繁に人が死ぬ。いや、正確に言うと人が死ぬことが分かるのだ。かと思えば、実に頻繁に人が生まれもする。日本よりも出生率
はまだまだ高い。大体の家は3人くらいは産む。一昔前までは4〜5人は産んでいた。私の親しいバリの友人に2人目が明日生まれる予定。前の
アグンライの敷地の若奥さんも2人目が一週間後に生まれる予定。おなかが大きくなってきても、頭に水や燃料の枯れ木、牛の餌の草などを
乗せて毎日平気で運んでいるので、誰がいつごろ子供を産むか大体わかる。この島は人の生も死もその日常もとてもはっきり見える。
それは満月から新月へ。新月から満月へ。月の満ち欠けが毎日手に取るように見えるのと同じだ。ここに住んでいると人々の人生が見える。
喜怒哀楽も、その生と死も全て私の目の前で繰り広げられる。人生が『なまもの』だとよく分かる。そして不思議なことに、ここに住んでいる
私のちっぽけな人生もその宗教や文化を越えて、まるで鏡のようにリアリティを持って今ここに赤裸々に映しだされている。これは、ある意味
怖いことだ。しかし、その覚醒された感覚だけを唯一の手がかりにして、この、明日が何も見えない暗闇の人生の中で何とか絵を描いている。
新月の前夜に息子が撮った三日月。 影の部分も見えて、まるで満月のようだった。
このHPでも相互リンクをさせてもらっている、画家の菊地理さんが
月刊雑誌「わーずわーす」(主婦の友社)に「日本の水墨画を旅歩く」を連載中。
菊地さんは私の大学の先輩でもある。
菊地さんから絵についての文章をメールで何百ページも送ってもらって、今までほとんど全部読んでいる。
いつもなるほど!と納得し、感動することも多々。
菊地さんの絵画論は中身が濃いがとても読みやすく、ぜんぜん堅苦しくないのが特徴。
私はこんな僻地にいるのでリアルタイムでは読めないが毎月実家にためてもらって8月の帰国時に
まとめて読むつもり。早く読みたい。
2005年2月4日 森の道
一週間くらい朝から夕方までよく晴れた。雨期の間はアトリエのテラスから見えるものを描いたり、息子を描いたりしていたが、久しぶりに
イーゼルを担いで門の後ろの道まで出てちょっと大きめのキャンバスに何日か描いた。このあたりはバナナが生い茂っていて涼しい。
3日目ぐらいから今度は雨、また雨。雨期は終っていないのでよくあること。迷ったあげく、アトリエで何日かいじってしまった。案の定
絵の動きが硬くなってきた。分かっているんだが、いつもじれてむずむずしてきてやってしまう。まあこんな絵もあっていいだろう。
と、いつものように果てしなく自分に甘く考えて、とりあえず止めた。
またいつか晴れた日に現場でいじるかもしれない。でもそんな時に限って、近所の人がバナナの葉っぱをお供え物に使うためにごっそり
採って行った後で、風景が激変してるんだよな…。この絵の中に描かれているようなバナナの葉っぱは、バリ人にとって、皿になり、
包み紙になり、箸になり、お供え物の敷物や飾りになり、簡単な屋根になり、緊急時の傘にもなる。まこと重宝な植物である。私もケーキなどの
デザートやちょっとした軽食はほとんどバナナの葉っぱを使う。皿で食べるより美味しさが1,5倍違う。バリ料理のナシチャンプルやラワ―ルなど
を食べる時は手で直接食べるので、バナナの葉っぱは必需品。手と葉っぱが触れ合う時の感触がなんともいえないのだ。
また、この植物は苗を植えるとあっというまに大きく成長するので、惜しみなく使えるのも嬉しい。
この涼しいバナナの森を抜けると渓谷の丘に出て、そこに私の家がある。
( 「森の道」 2005年 油彩 F15号 ) ここ抜けるとすぐに門が見えてく
2005年1月28日 野良ヒヨコ VS 箱入り猫
ここ1週間で親からはぐれた例のヒヨコたちは、驚くほど大きくなってきた。猫や犬と違って鶏は成長が早い。あっという間に大人になって
あっという間に卵を産んで、またすぐ大人になる。まあ、それでもそのヒヨコたちはうちの大人猫たちよりは格段に小さいのだが、ここ数日は
猫餌を猫より先に食べる。音を聞きつけて凄まじい速さで7匹が走ってくるのだ。それで、うちの箱入り猫はビビッてさっさと逃げてしまう。
情けない…。前に飼っていた猫は、美味しいひよこのような生きてる餌が来たら追いかけては食べていたが、今のうちの猫は食べるどころか
ひよこたちに餌を譲っている。なにか物音がするとこのヒヨコたちは20から30メートルも飛ぶ!野良のヒヨコは凄まじい!こんなに飛ぶとは思わ
なかった。猫に関しては最近甘やかしているからなあ…と反省はするものの、ひよこの安全度が増してホットもしている。敷地内にある竹薮には
リスが十匹以上棲息していて、こちらのほうは時々うちの猫の犠牲になっている。屋根に棲息している大ヤモリも時々犠牲になっている。
ようするに好き嫌いの問題なのか?相性の問題か?
今日はバリ島東部にある、バリ先住民の村(テンガナン村)にスケッチに行った。この村は水牛を飼っている。で、水牛が村のいたるところに
寝そべっているのだが、ひよこも、アヒルも一緒に寝そべっている。図体はデカくても、草食なので共存できているのだろう。まことにのんびり
したもの。
宮嶋の絵(スマトラアチェへの義援金のためのチャリティ展覧会:セニワティギャラリー企画)がようやく完成し、数日前に搬入した。
今回は展示場所がセニワティギャラリーでなく、外資系のホテルだそうだ。ホテルの方がいろいろな人の目に付きやすいのかもしれない。
また後日展示風景を紹介します。
鳥と牛が仲良く共存しているテンガナン村 ( 撮影:龍太郎 )
2005年1月21日 親はなくとも子は育つ
子猫のピーとコピは数日前からダンボールをよじ登りそうになっていたが、案の定それを察してか、母親猫のマリがダンボールの
巣からトランクの上へ引っ越した。子猫たちもいよいよ離乳期が近づいて来た。しかしこのお陰で、私が今座っているパソコンの
すぐ横で子猫がいる、という幸運がやってきた。今が一番可愛い時期。わざわざダンボールから出すまでもなく、私の横で可愛く
寝たり遊んだりしてくれている。
最近はどこからか迷い込んだひよこの群れ(7匹)が猫の餌の食べ残しを狙って敷地に居座っている。
親鶏からはぐれたのだろう。雨が降ったらちょとした軒下でかたまっている。もうかれこれ1週間以上たつがまだ元気でいるので、
ひょっとしたらこのまま自力で大人になるかもしれない。マリや私たちに守られながら育つ子猫もいれば、親とはぐれてもなんとか
たくましく生き抜いているひよこたちもいる。それぞれにそれぞれの星があるんだな。親はなくとも子は育つとはまことこのことか。
宮嶋と息子は今から卵を期待している。そういえば昔も同じようなことがあってしばらくの間、産みたて卵にありつけたことを思い出した。
昨日の夕方は、敷地の前の渓谷に何百羽という小鳥が20分ほど旋回しながら群れ飛んでいた。一瞬地震の前触れかとも
思ったほどだった。あれはどういうことなんだろう?繁殖期なのか?縄張り争い?時々こういう現象は見かける。
雨が降ってきたので笹の下で雨宿りしていた。主食は猫の餌の食べ残し。
母親猫に抱きついて寝ているのは2回目のお産で生まれた「プリン」
2005年1月14日 ランブータンの日々
ここ1週間はほとんどスコールが無い。雨期が終ったのかと勘違いするくらいだ。こういう現象は時々起こる。
お陰で洗濯物が半日ですっかり乾く。ありがたい。それでちょっと厚手の長袖なんかもどんどん洗っている。私が洗濯機の音が嫌いなせいで
各自が自分の服を手で洗う。これはもう14年続いている。洗濯の時間は瞑想の時間でもある。する前はめんどくさいが、し始めるとそんなに
嫌いでなくなる。何を考えるわけでもないが知らない間に静かな気持ちになっている。これは洗濯機では無理。なかなかこういう時間はありそうで
ない。 キャンバスを張っている時や筆を洗っている時もそういえばおなじような精神状態か。
ま、今は晴れているがまた何日かしたら今度は毎日雨の連続になるのだ。このパターンはもう慣れている。
ところで、ようやく最近ドゥリアンを食べ飽きてきたら、今度は近所の木々にランブータンが実り始めた。
ランブータンは季節になると、もう田んぼの周辺のそこらじゅういたるところで実る。そしてこれがなんとも後を引く味なのだ。日本で食べれる味で
いうとちょうど中国から来たライチに似ているかな。私の敷地では実っていないのでタダで食べれるわけではないが近所の人が小遣い稼ぎに
しょっちゅう持って来てくれる。ちょっとしたお礼のお金を払って、貰う。新鮮なランブータンはとてもジューシーで、たくさん貰っても3人であっと
いう間に食べてしまう。ランブータンは赤色が多いが、黄色のものもある。黄色の方が美味いかな?
2匹の子猫は離乳期が近づいてきている。もうそうとう箱の中で暴れ始めているようだ。時々母親猫のマリがいない時に箱の外に出しては
遊んでいる。今が可愛い盛りなので、遊ばにゃ損損。
数日前に宮嶋が絵を常設してもらっているセニワティギャラリー(Seniwati Gallery)から、今回の大災害に関する義援金を募るチャリティ展覧会の
出品依頼の手紙が来た。テーマは「kashi sayang sesama Manusia」日本語に直すと「人間共存の慈愛(慈悲)」というような意味。
それで、彼女は現在制作中。もうなんでもいいからできることからやっていこうと思っているらしい。
「セニワティ(Seni Wati)」とは「Art by women」という意味。
ランブータンは甘すぎず、とてもジューシーなのでこれくらいなら3人でぺロッと食べれる。
2005年1月7日 未来永劫不変の気質?
スマトラ島沖地震 インド洋津波の義援金は増え続け、オーストラリアは7億2000万ドル、国連常任理事国入りを狙っているドイツが
6億5000万ドルで、日本は5億ドル。そして米国は3億5000万ドル。個人も法人もたくさん寄付を申し出て相当の金額が集まってきて
いてはいるが、はたして今一番困っている被災地の住民のもとに物資やお金は十分に届いているのだろうか。
情報を集めて分かってきたことはやはり心配したとおりここインドネシアでは救援物資の一部がヤミで売られているらしい。ほんとに
なんたること!情けない…。その他いろいろな現地情報によると、例のごとく、国家や自治体がこの災害の莫大な援助金や諸外国に
よる借金の免除を利用して一般財政を再建しようとしている。いやはや露骨なお国柄だ。だから諸外国や個人、法人がどれだけ寄付
しようが、国連が中心にその支援行動をしようがそのなかの何割かは関係ないことに使われていく。天災をいいことに自分だけの懐を
潤わす役人達もそうとう多いと聞く。現地の交通機関のいくつかは明らかに足元を見て運賃を何倍にもすでに値上げしている。日本でも
こういうことは時々あるが、この国では実に頻繁にあること。抜き取りや火事場商売は日常茶飯事だ。私は15年間この地でこういう情報
を見聞きし、自分も体験し、もうほとほとあきれ返っている。この国のこの気質は未来永劫不変なのか?くらいに思ってしまう。とほほである。
もちろん、真っ正直な気持ちで被災民のことを考え、この、今の今も無私の気持ちで行動している名も無き人たちもこの国にはたくさんいる。
このことが救い。
まあ考え方を変えれば、援助する国や法人も自分のいろいろな利害関係や名誉欲などで援助し、されるほうも勝手なことに使っているだけ。
何が悪い。ともいえる。
しかし、やはり、今はなんとしても被災地の人々のことだけ考えて欲しい。自分の家族が被災し、家も何もかも無くしたとしたら…と考えて欲しい。
数年後に残ったお金はともかく、ここ数ヶ月は頼むよほんと。
私もとりあえずインターネットを使って寄付をしたが、これも本当に直接被災地のために利用されるのかどうか実は不確かだ。そしてそれを
覚悟でそういう行動もしている。
ほんとうはまとまったお金を持って義援金を募ったグループが被災地にまで直接行くのがいいのだ。そして使い道を徹底して監視する。
それが一番。しかしそこまでの根性は今の私には無い。何割かをどこかの部署で搾取されるのを覚悟で寄付していくしかないのであろう。
それにしてもこんなに日本や欧米豪が援助の体制を作っているのに、インドネシアと同じイスラム教で繋がっている中東諸国は援助金の額も
含めてちょっと冷たい気がするのだがどうしてか?アッラーの教えとはこんなものなのか?
私の家の母親猫のマリはちょうど二年前、あのクタでテロが起こる直前に私に拾われてきた猫だ。そして今生まれた2匹のピーとコピは
この大災害の直前に生まれた猫たち。彼らはこの天災のことなど知らずにすくすく育ってもう2週間がたった。相当安定してきた。
「僕らなんも知らんけんね。オッパイ欲しいだけ」と言っておりました。
2005年1月1日 年賀
明けましておめでとうございます。
わたくし、昨年中は思い起こすだに恥ずかしきことの数々、
今はただ、後悔と反省の日々を過ごしておりますれば、
皆様方におかれましてもご放念下されたく、恐惶万端
ひれ伏して、おん願い申し上げます。
なお、わたくしの拙い絵、バリ日記、そして男はつらいよ等々、
いずれも独りよがりで未熟な出来ではございますが、
私のかけがえのない作品でございますれば、
何とぞ、今後ともご指導ご鞭撻のほど、お願い申し上げます。
末筆ながら、皆様の幸せを遠い他国の空からお祈りして
おります。
正月元旦 吉川孝昭 拝
龍太郎作 闘鶏2005
雪降るとらやのお正月。第24作「寅次郎春の夢」より(正月シーンは多いが雪が降っているシーンは珍しい)
2005年元旦 テラスからの初日の出(午前6時) 最近は朝晴れることが多い。
2004年12月29日 スマトラ島沖地震 インド洋津波 のこと
3日前からバリ島ウブドの私の敷地上空を風が低い音を出して異常な勢いで舞っている。
地震の余波なのか、台風の前触れの音なのか、天災の前触れなのか良くは分からない。
とにかくバリ島も油断は禁物。
衛星放送のCNNでは一日中この関連のニュースばかり。日本のNHKでは流れないような映像が流れ続けている。
津波で人々が流されている映像や次々に収容されてくる人々。人工衛星からの連続写真などの映像がかなり流されている。
目を覆う惨事だ…。私の知る限り天災の被害ではほとんど例をみない。
ローカルのインドネシアテレビも同じ。食糧や医療品の物資が足らない。緊急処置としてアチェの最も被害が大きな地区の
上空から小型飛行機で次々に食糧や医療品の箱を下に落としていた。
下は水びだしなのでそれらの物資は住民に届くのか…。 トラックは無理。街中水びだし。
私は短波放送が入るラジオを大型だが持っている。インターネットなどの通信網が途切れた時は強い見方だ。
電話ケーブルは一端途切れると1週間はそのまま、ましてやこのインドネシアは1ヶ月はそのままだろう。
もっともラジオは受信一方で、こちらから発信できない。緊急の場合はこちらから連絡しなくてはならず、どうしても
発信装置を持っていたい。こうなってくると私も来年あたりから無理してでも「衛星電話」を携行しないといけないかもしれない。
マグニチュード(M)9,0の今回の地震は記録上4番目に大きな地震。インド洋津波を引き起こした地震の揺れが、地球の表面を3周以上も
伝わっていたことが、気象庁精密地震観測室(長野市)がとらえた波形データで分かったらしい。
ずれた断層はアンダマン諸島方向へ300Kmも伸びているとのこと。物凄い規模の地震だったことが分かる。
津波はアフリカ、ニュージーランドまで及んでいる。
29日朝、判明分だけで、インド洋沿岸12ヶ国、アフリカケニアなどの域外17ヶ国から死者。邦人も今のところ十数人。不明者多数。
1883年にスマトラ島近くの火山噴火による津波で3万6000人が死亡した惨事を上回り、観測史上で最悪の津波被害。
周辺各国ではなお2万人以上の不明者がおり、最終的な犠牲者は10万人をはるかに超えるかもしれないらしい。もう想像ができない。
国連人道問題調整事務所(OCHA)のヤン・エグランド所長(人道問題担当事務次長)は27日、インドネシア・スマトラ島沖地震と大津波に
ついて緊急記者会見を開き、「おそらく被害総額が何10億ドルに上り、災害史上最高となる」との見方を示し、先進各国に援助を要請したこと
を明らかにした。同所長は、水質汚染、衛生悪化から感染症まん延などの二次的被害が今後、深刻化し、直接の被害を上回ると予測。
12月29日早朝 現在、スマトラアチェ州の正確な情報が徐々に分かりつつある。
死者数は当初の発表をはるかに上回ってきた。
現在もアチェ州は電話、水道、電気等がほとんど機能していない模様。
インドネシア経済は混乱を避けれそうもない。いろいろな分野で影響がでそうだ。
今後援助募金運動もバリで始まると思うので2年前のクタでのテロの際の義援金やチャリティの時と同様にそれらに参加するつもり。
今朝は豪雨。風も上空で低い音を出して回っている
2004年12月25日 『ピー』と『コピ』誕生
22日の夜、メスのマリがいつまでたっても餌を食べに来ない。これはもしや!っと荷物部屋に行ってみると、マリの声がした。
ダンボールの中ですでに一匹生まれてて、2匹目も上手にひとりでこなした。さすがに4回!合計10匹目のお産だけあってマリも
余裕で平常心を保っている。最初のお産は彼女もビビッテしまって、大変だった。
子供が生まれるたびに人にあげたり、途中で車寅次郎ように「あばよ」と生まれ故郷を旅立たれたりして、少なくなったなと、思うと
このマリがすぐに3匹、4匹と産む。いたちごっこのようになっている。バリ人もつい二十年ほど前までは7人8人の子持ちは当たり前
だったらしい(^^;)
マリは、二年前ちょうどクタでテロ事件が起こった頃、ダンボール屋に住み着いた野良猫のはぐれ子供(みなしご)としてガリガリに
やせ細ったあげく捨てられそうになっているのをたまたまダンボールを買いにきた私が、「捨てられて死んでしまうくらいなら、もらって帰ろう」と
ついつい仏心を出してしまったのが運のつきで、そのあと産むわ産むわ、食うわ食うわ、でほとほと呆れている。
「労働者諸君!稼ぎに追いつく貧乏なし!」と寅さんが工場で工員をからかっているが、「お産に追いつく貧乏なし」だと、居直って笑いながら
なんとか凌いでいる。一番多いときは7匹もいたので完全に猫屋敷と化して、破産しそうになったこともある(^^;)絵の具を買わないで猫缶を
買ってきたなんて笑い話のようなこともあった。しかしこれも何かのご縁だと思って育てていこうと思う。この隠遁暮らしがここ何年もマリのお陰で
少しだけ賑やかで和やかになった。それでもう十分嬉しくもある。
今日、子猫の名前が「ピー」(茶トラ)と「コピ」(黒トラ)に決定。ピーはピーナッツ色。コピはインドネシア語でコーヒー。
三毛猫は確率が低い。今まで10匹生んだが、三毛猫は2匹。
そういえば今日はクリスマス。私は正月も、クリスマスも、誕生日も昔からさほど興味がない。別になにもたいしてしない。静かにこの雨期の
終りまで冬眠したいだけだ。絵の取材もこの冬眠の間は敷地内か、ごく近所に限っている。冬眠中のため、敷地に入ることは雨期の終りまで
どんな親しい友人にもご遠慮いただいている。それゆえ実に静かな日々が続いている。でもその分、逆にメールが増えて嬉しい。メールは会話
とはいえないなんて言う知識人も少なからずいるが、私はぜんぜんそんなことはないと思う。お互いの我や欲がほどよくとれて実にバランスよく
やり取りできている。この前も書いたがメールは大歓迎です。
2004年12月16日 夜中に落ちるトゲトゲ弾
1週間ほど前から昼ともなく夜ともなく、敷地の隅の方でドスンという音。また数時間後にドスンと音がする。
大きなドスンはナンカの実(ジャックフルーツ)が木の上から落ちる音。小さい方の音はドゥリアンが落ちる音。
ナンカの方が大きくて重いが、ドゥリアンの方がより高いところから落ちてくる。何よりもあのトゲトゲが痛くて、頭に当たったら
間違いなく大怪我をするだろう。ふたつの果物とも敷地の中外にいやというほど実をつけている。熟しても採りきれずに
自然に落ちてしまう。私達もアグンライの家族達も食べているのだが、はるかに実のなる量とスピードが勝り、お手上げ状態(^^;)。
なんとも贅沢な話。豊饒な熱帯雨林ならではの現象だ。
今年はいつにもましてドゥリアンが豊作で、アグンライの家族も気前よくどんどん私達にくれる。ここ一週間喜んでバコバコ食べまくっていたが、
お陰で台所と敷地がドゥリアンの匂いでいっぱいだ。ちょっとセーブしないと収集が付かなくなってきた。
嬉しい悲鳴だ。ドゥリアンは輸入が制限されているので日本の果物屋さんでは物凄く高価で、安くても1個5000円!はするそうだ。
(こちらでは市場で1個60円)しかも日本の場合こちらからの輸入品だから若干古い。だからちょっと臭みがあるのだ。
木から取り立てのドゥリアンは臭みは全くなく、清々しい香りと、濃厚だが後を引くうまみがある。果物の王様と言われるのも分かる気がする。
鴨長明さんが晩年を過ごした京都は温帯湿潤気候なのでやはり冬は厳しく、食べ物もなかなか手に入らない時期もあったはず。
そこの部分だけはこの熱帯雨林に住む私は恵まれている。ありがたいことだと思う。
とにかく飢えて、栄養失調で倒れることがないのだから。
食べ物が豊饒に実るこの島の人々は、その行動も実にエキサイティングなことが多い。何が起こっても
くよくよ悩まない。喜怒哀楽を生の形でだしている。しかし、褒めてばかりもいられない。
つきあってみるとそうとうこちらにも体力と精神力が必要なことが分かってくるのだ。ただじゃすまないのである。
昨日息子が「男はつらいよ覚え書きノート」に撮影風景の漫画風イラストを貼り付けていた。ささっと描いたわりには
なかなかよくできているのでここでも紹介します。↓
左から順に、山田組の録音:鈴木功 証明技師:青木好文 監督:山田洋次 撮影:高羽哲夫(敬称略)
2004年12月9日 やって来ましたドゥリアンの季節!
ドゥリアンの実がたわわに実り始めている。私のアトリエの窓からすぐ裏に何十個と見える。
いよいよドゥリアンの季節がやってきた。
昨日さっそく2つ食べてみた。トゲトゲを開けたとたんとてもさわやかな香りがプア―っと広がった。
新鮮なドゥリアンはくどくないのだ!3人で取り合いをしながらあっという間にぺロリ。あ〜至福…)^o^(
これから二か月ほどはしょっちゅう食べることになる。ほとんど誰にも会わないこの寂しい隠遁暮らしのなかにも
近くで採った新鮮な果物の香りが入り込み、少し心が和む。
今朝は久しぶりに晴れて渓谷は一面の朝もやに包まれていた。
今夜は暦の日がいいらしく、どの寺も儀式が始まっていて、遠くからガムラン演奏の音が聞こえてくる。
鴨長明さんは方丈記の最後の方で、自分の人生について高らかにこう書いている。
『おおかた、世をのがれ、身を捨てしより、
恨みもなく、恐れもなし。
命は天運にまかせて、
惜しまず、いとはず。
身は浮雲になずらへて、
頼まず、まだしとせず。
一期の楽しみは、うたたねの枕の上にきわまり、
生涯の望みは、をりをりの美景に残れリ。』
「世を逃れ身を捨ててからは、私はおおかたのところ
恨みもなく、恐れもなくなった。
命は天運に任せて
命を惜しみもせず、また、死を恐れもしない。
この身を浮雲のように思いなぞらえているから
現世の幸運を頼みもせず、また、悪運だからといっていとわない。
一期の楽しみは、うたたねをする枕の上に極まり、
生涯の望みは折々に見た美しい景色に残っている。」
今書き込んでいるだけでも胸が熱くなってくる。こんな美しい文章は古今東西でもめったにない。
『この人生に悔いなし、』と、言い切る長明さんの涼やかな顔が目に見えるようだ。
世俗の垢にまみれてきたこの私にも長明さんのこの言葉を心の底から言えるような日々がいつかくるのだろうか。
12月8日午前6時の渓谷の空 こんな美しい朝は何もしないで長いすに横たわっていたい。
2004年12月3日 人に交わらざれば、姿を恥づる悔いもなし
雨、雨、雨、…いきなり雨期真っ只中!もともと出不精な方なのにほとんど遠出をしなくなった。そろそろ今年も本格的な『冬眠』に
入る時期が来た。夕方近くそのあたりを散歩して、近所の人とちょっと話をし、あとは敷地で染織デザインなどの作業をし、絵を描き、
食事を作る。買物はなるべく週に1回。食材がなくなってきてもまあなんとかありあわせの野菜で簡単におかずを作る。この季節マンゴ
が上手くて驚くほど安いので(1s60円!)マンゴだけはたくさん食べる。昼は宮嶋が作り、夜は私が作ることが多い。雨期は4ヶ月ほど
続くから、その間はほとんどこんな感じ(冬眠状態)で過ごす。近くのアグンライの家族たち以外の人とはほとんど交流を閉ざす。もちろん、
日本から来た知り合いとも、同じ村に住んでいる昔馴染みの日本人達ともこの雨期冬眠中は滅多に会わないようにしている。冷たい奴だ
と思われても、いっこうに構わない。徹底的に静かに暮らす。まあ、もともと敷地には誰も入れず静かに暮らしたい気持ちから、こんな
ジャングルの中に引っ越してきたのだから、あたりまえといえばあたりまえ。もう2年近く友人も含めた人々の敷地への来訪を遠慮して
もらっている。電話も嫌いだから鳴らないようにしている。人との通信手段はFAXとパソコンのメールだけ。これはとても好き。見たいときに
見れるし、音は出ないし、気がむいたときに返事が出せる。私としてはメールは嬉しいし、大歓迎です。
ここんとこ紹介し続けている鴨長明さんも静かに暮らすことを何よりも好んだ人だ。
『人に交はらざれば、姿を恥づる悔いもなし。
糧ともしければ、おろそかなる報をあまくす。』
『世に出て人と交際するわけではないからみすぼらしい姿を恥じて後悔することもない。
食糧はいつも乏しいからしょうもない食べ物でも美味しいと感じる。』
と、いうところまで書いたらなんと!昨日からPCが壊れていて、動いたり、止まったりで、瀕死の重傷である。
もともと安くで買ったので、いつ壊れてもおかしくないが、今日はパソコン屋のエンジニアの人に来てもらってマザーボードを
取り替えざるを得なかった。(TT)
それと、猫のマリがあと10日ほどでまたまた出産しそうだ。もうこれで4回目の出産!3匹くらいお腹にいそう(^^;)
ああ〜〜、せっかく「冬眠」しようと思っていたのに〜〜!おぉのれぇ〜〜 (ーー;) まあ生まれたら生まれたで可愛いけどね…。
激しい雨と共に雷が近くに落ちたので慌ててテラスから部屋の中に入った
2004年11月23日 自ら休み、自ら怠る
いよいよ毎日雨が2〜3時間ほど降るようになった。敷地の緑もいきなり濃くなり、成長が加速している。
今日22日は一日中雨。もうすべてキャンセル。
雨が続くと、予定が狂う。まず、野外制作が億劫になリ、アトリエでの制作が増える。遠出の用事を先延ばしにしたくなる。
起きる時間に雨が降っている時などは、すぐには起きないでだらだらしてしまう。買物もなるべくしないで、あるものでつい
我慢をしてしまう。あまり人と会わなくなる。等々だ。我ながらとほほである。
しかし、それには他のわけもある。乾期の間の熱帯の疲れがゆっくり現れるのも実はこの雨期の初めの今なのだ。
体が熱っぽくなり、時々頭痛が襲ってくる。ゆっくり養生してれば1週間ほどで消えていく。体のリズムをつかみ、無理を
しないであえて怠ける。このことはこの東南アジアの片田舎では絶対必要なことだ。
先週から紹介している「方丈記」の中で長明さんもこう書いている。
『もし、念仏ものうく、読経まめならぬ時は、みづから休み、みづから怠る。
さまたぐる人もなく、また、恥づべき人もなし。ことさらに無言をせざれども、
独り居れば、口業を修めつべし。必ず禁戎を守るとしなくとも、
境界がなければ、何につけてか破らん。』
『もし念仏を唱えるのが億劫で、読経を勤勉にしたくない時は、潔く自分で休んでしまい、
自分から怠けてしまう。そのことをよくないことだと妨げる人もいないし、また、そのようなことを
恥じねばならない人もいない。特に無言の行をしなくても、独りでずっといれば口(しゃべることから生じる)
から出るいろいろな罪、わざわいから免れる。
必ず戒律を守ろうとしなくても、そもそも戒律を破る環境がないのだから、何によって戒律を破ろうか。』
私にはさすがにやらねばならぬことが少しはあるから長明さんのようにはいかないが、それでもできるだけ無意味に人に会わないで
すむようなことを選び、どちらでもいいような用事はすべて捨てるようにして心身に無理をかけないようにしている。40歳過ぎでこんな隠遁
してていいのだろうかとは近年はもう思わなくなった。とりあえずこの生活以上にやりたいことはないのだから。
長雨の日は猫もほとんど動かず寝っぱなし…。いつまでも寝続けるプリンとブチの兄弟猫
2004年11月16日 長明さんの何気ない一日
ここ一週間夜になると必ず雨が降るようになった。いよいよ雨期の到来だ。そのせいか1ヵ月ぶりに今日は断水もなかった。
雨期は困ることも実に多いが、水不足に悩まなくて済むので嬉しい。
今日も『方丈記』を再読している。鴨長明さんの住居と私の住居は共通点が実に多い。これはまことに興味深いし心強い。
『その家の有様、よのつねにも似ず。広さはわづかに方丈、
高さは七尺がうちなり。所を思い定めざるがゆゑに、地を占め
て、造らず。土居を組み、うちおほいを葺きて、継ぎ目ごとに、
かけがねを掛けたり。もし、心にかなはぬ事あらば、やすく
他へ移さんがためなり。その、改め造る事、いくばくの煩いかある。』
『広さは僅か、3×3の9u。高さは2mちょっと。どこかに住みたいと思い定めて
住むわけではないから、土地を買ってそこに建てることもしなかった。家屋も土台を組み、
簡単な屋根を葺き、柱などの継ぎ目はかけがねでつないだだけだ。
もし、そこでいやなことがあったら簡単に別の土地へそのまま移せるように造った。
その時の費用はそれほどかからないのである。』
広さが3×3mなんて、とてもこじんまりしている。その中で寝起きし、時々琵琶を弾いたり、お経を読んだり、書いたり、和歌を
詠んだりするのだ。釘はほとんど使わず、いつでも移動できるようになっている。費用もほとんどかかっていないようだ。
私の建てた家も簡素な造りで、特に、寝る家と、アトリエは釘をほとんど使わず、木を組んで高床式で造った。これはバリ島の
昔ながらの米倉からヒントを得たものだ。だからなにかいやなことが続いたりすると、バラしてトラックで別の土地に持っていける
のだ。台所などは柱も壁も全部そこに生えている竹で造った。
それゆえ費用はあまりかかっていない。同じ村の大工さん数人にかなり手伝ってもらったが、随分私や宮嶋も手伝って費用を
浮かした。
ただ、私は長明さんみたいに一丈(3×3)の狭い部屋に住むほどの気持ちの軽さはまだない。絵も売るし、染織作品も売る。
まあしかし、別に長明さんまでしようとも思わない。私にとって今の状態も随分『隠遁』だ。このへんが自分の分だと思っている。(^^;)
私の愛読書「方丈記」の表紙の「帯」用に息子(龍太郎)がマンがを描いてくれた。気に入ったので下に紹介します。
このマンガはなんかよく分からない筋ですが、なんとなーくのどかな雰囲気が出ていて見ているとほっとするから不思議です。
長明さんの何気ない一日 龍太郎作
(右から左へ番号に沿って見ていって下さい。) ←
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2004年11月8日 800年の時を経て
バリに戻って、ようやく3週間が過ぎ、絵を描く日々が戻ってきた。私の近所に村の小学校がありその裏の道はいまだアスファルトが
引かれておらず歩いていくと隣村に通ずる。このあたりはとても雰囲気がよい。昨日の午後、一時間ほどで一気に描ききった絵が
下の「村への道」である。
それにしても最近アスファルトを引いていないいわゆる「地道」が少なくなってきた。私が住み始めた14年前、大きなメイン道路意外は
全て地道だったのに、ここ数年でほとんどの道がアスファルトに変わってしまった。村人にとっては雨期の泥んこ道から開放されて嬉しい
のかもしれないが、やはりアスファルトでは絵にならないのである。土というのは実に良い。時には硬く、時には柔らかい。私は土を求めて
バリに来たようなものだ。
もう何度か書いたと思うが、絵というものは、頑張っても、気張ってもダメな時はだめである。上手くいくときは
パッと上手くいく。その時のタイミングと描いている最中のリズムで決まる。こればっかりは描いてみないと本人にも分からない。
まったくわがままなダダッ子みたいなものだ。まあ、絵の結果は究極的にはどちらでもいい。こうして絵が描けることが貴重なのだと思う。
誰のためでもなく、ただ気持ちのままに絵を描ける環境にあるということに最高の至福を感じる。
私のバリ島での愛読書「方丈記」にもそのようなことが書いてある。
『芸は拙なけれども、人の耳を喜ばしめんとにはあらず。
独り調べ、独り詠じて、みづからこころを養うばかりなり。』
はるか800年も前に生きた鴨長明さんも、同じようなことを考えていたんだなあ、と感嘆している。
方丈記は私の隠遁暮らしと共通する部分が物凄く多く、毎回読み返してはニタニタ笑っているのである。
( 「村への道」 2004年 油彩 F4号 )
2004年11月1日 ボケた頭ではいられない
イラクの香田さんの結末はショッキングなものだった。確かに彼には自分から危険地帯に飛び込んでしまったという面はあるが、なにか
他人事とは思えない気がした。親御さんの気持ちを考えるとなんとも辛くなる。私も日本を離れ東南アジアのバリ島にもう14年も住んでいるが、
これまでに自分のまわりが危険な状況になったことは何度かあった。毎晩ナイフを枕もとに置いて寝た日々もあった。私は別に政府の役人
でもないし、国際青年協力隊でもジャイカのメンバーでもない。ただ個人で絵の制作のためにこんな辺境の地に住んでいるただの物好きな
おっさんだ。だから何か事件に巻き込まれても今回同様「そんな場所にいるからだ。」ということになる。
海外に住むものはいつも緊張を強いられて日々暮らしているのだ。どんなにリラックスをしているように見えてもどんなに一見安全なように
見えても海外にいる厳しさを忘れてはならない。というより忘れられないくらい問題がたくさん沸き起こってくる。特にここはインドネシア。
東南アジア最大のイスラム教徒の国だ。ボケた頭ではいられないのだ。
ところで数ヶ月前くらいから以前にも増してほんとうに多くの方からHPの感想のメールをいただくようになった。このような寂しい隠遁暮らしを
している身にはとても嬉しくそして心強い。リンクもいろいろ貼っていただいて恐縮している。
みなさん、ありがとうございます。 kioさん(画像掲示板)、topはこちら 熊寅さん(top)
kioさん、熊寅さん、私の拙いHPを紹介してくださいましてありがとうございます。
さあ、11月だ。そろそろキャンバスに地塗りをするぞ!
「人間たちの浮世のことは知りません。僕は眠いのでとりあえず寝ます。」と言って寝ている「プリン」
2004年10月25日 雨が降らない
もうここ4週間以上ウブドではもまともな雨が降っていない。毎日8時間以上の断水が2週間も続いている。
日本も台風と地震で大変なことになっているらしい。特に地震の中心地ではおそらく停電や断水も長く続いているのだろう。
このウブドの家も数日前4時間ほどの停電があった。その日は断水とダブルだった。電話やインターネットもバンバン止まる。
私の場合は、ほとんど生活に支障がない。なぜならばこんなことは、あまりにもしょっちゅうあるので、日頃からその対策を
練って、そういう計画のもとで日々の予定を組んでいるからだ。心の準備や敷地での対策、非常時の備品の充実などはここ
バリ島では必須のことなのだ。
日本は、来年も絶対これくらいの規模の台風や地震などがおこる気がする。被害を軽くする方法はある。それは
「同じような災害が100パーセント次回は自分達の土地にやって来ると思い込むことだ。ひょっとしてこのレベルの規模はもう来ない
んじゃないか、と思っては絶対いけない。100パーセント絶対やってくるのならばその対策に労力とお金と時間と知恵をかけて取り組める。
国家、地方自治行政レベルはもちろんだが、個人レベルでも労力や時間、お金をかけて事前に対策の準備をするしかないのだと思う。
国民全員が今までと意識を思いっきり変えて防御するしかない。地球のリズムが今、変化の時に来ているのだから、日本人の意識も
変えるしかない。
私はバリに移り住んだ最初の数年間、気候、風土、習慣、宗教、行政、公共機関、医療、倫理、道徳心、などなど全ての面で日本との大きな
違いに立ち直れないくらい打ちのめされた。分かってはいても今までの習慣が足を引っ張り、どうしても対処を誤り、後手後手に回って
しまうのだった。5年目くらいからようやく先手が打てるようになり、14年経った今はほとんど全ての分野でバリに合った気構えと事前の
対策を持てるようになった。(それでも上手くいかないことばかりだ)
キーワードは「誰も助けてくれない。だから自分でやる」だ。
家の建築、修理、電気の修理、電話の取り付け、修理、水道の取り付け、貯め水用のタワーの建設、修理、柵,門の修理、等々、全部、自分で
やる。病気になりそうな予感があれば事前に時間や手間をかけてできるだけ防ぐ。それでも毎回問題が山積みになる。イタチごっこのように、
次から次へ問題が起こる。しかし、やるべきことを粛々とやるしかないのだ。生きるということはその連続なのだろう。
PS: これを更新した後、いきなり豪雨になって1時間ばかりで凄い雨量になった。おかげでそこらじゅうで雨漏りがした。大雨の中、ゴアテックス
を羽織って屋根に登り、とりあえずビニールシートを掛けた。まったく自然のやることは凄い。この大雨で断水がなくなればいいんだが…。
猫の「プリン」とスマトラ島のアンティークシルク『プランギ』 80年位前の古くて貴重な布。猫にとっても肌触りがいいのか
陰干ししようと思って広げたらいきなり乗ってきて居座られました。(^^;)とほ。
2004年10月17日 静かな夜
昨日バリにようやく戻ってきた。当たり前だが、この時期のバリは、結構暑い、しかし、暑いのは、もう今や気ならない。
ここ数年はバリに戻ってくると、ほっとする。9月にウブドの自宅から歩いて10分で行ける場所に大きなスーパーマーケットができたので、
ますます生活が、便利になった。ある意味とても住みやすい。しかし、だからこそ、バリを離れる時が、逆に徐々にではあるが近づいてきてる
ような気もするのである。そういう意味でも、絵を描くということは、本当に厄介な行為だ。
奮闘努力の甲斐もなく、今回も展覧会でそんなにたくさんの絵は売れなかったが、バリに、戻ることができたので、心底ほっとしている。
この二カ月間働き詰めだったので、しばらくは、この静かなジャングルの中で、何もせずに体を休めたい。
今夜は、とても静かな夜だ。
こんな静かな夜は虫の音と猫の寝言だけが聞こえてくる。
2004年10月2日 同時代に生きる幸せ
イチローがついさきほど新記録の258本を打った。監督もチームメイトも試合を中断してイチローと抱き合い祝福。フアンは総立ちで
大歓声の渦。
昨年の阪神タイガースリーグ優勝の時も感激したが、イチローのこの偉大な記録達成は格別な思いがある。
一昨年、イチローのロングインタビューの本をバンコクの紀伊国屋で買って以来、彼の考え方、感覚にずいぶん影響を受けてきた。
運動能力、動体視力、頭脳、分析力、意思力、精神力、持続力、バランス感覚、努力を惜しまない気持ち、そして何よりも、誰よりも
『野球が好きで好きでしょうがない』ということ、等々すべてにハイレベルな領域にいるスーパースターと同時代に生きることができて、
彼の野球、生き様を垣間見ることができて我々は本当に幸せだ。心底彼のことを誇りに思う。おめでとう。
更新の日ではないけれど、嬉しくて、ちょっと書きたくなったので…。
家のすぐそばで近所の農家の人たちが集まって100円か200円で野菜や果物を道端で売っている。
これが安くて美味しいのだ。どれもこれも市価の半額。今日は「あけび」がたくさん手に入った。
あー、もう秋なんだなあ。
「あけび」は種を取り出しながら実だけを食べるのだが、いつまでたってもなかなか上手く食べれない。これがなかなか難しいのだ。
つい、種も入ってしまう。もちろん種は超苦い。実はちょとだけ甘い。まあ、雰囲気を楽しむっていう感じか。とにかく日本の秋は最高
に美しい。本当は毎年のように秋を味わってからバリに戻りたいのだが…。
2004年9月28日 『裸の島』 との出会い。
更新がずいぶん遅れてしまった。すいません。(いろいろ野暮用で留守をしてました。)
展覧会は全て終わったのだが、個人的な用事のため10月10日まで日本に滞在することになった。越中八尾はここ数日ちょっと秋の気配だ。
空気がちょっと冷たい。バリでは味わえない季節の変化。妙に懐かしい。
エアポケットで時間が空いたので、映画のDVDを借りて前から見たかったものを観ている。お陰で近年の気になっていた日本映画や
中国映画はあらかた観た。『山の郵便配達』もお父さん役の俳優さんの表情が味があってよかったー。そしてなによりも前から観たかった
新藤兼人監督の『裸の島』がようやくDVDになっていたので遂に観ることができた!学生時代から人に一度観たほうがいいよ、と言われて
いたのだが、当時なかなかミニシアターや名画座ではやってくれなくて半ばあきらめていた。
何とも深い味わいのある作品だった。誰が何と言おうが名作だと思った。
『裸の島』は1960年(昭和35年)のモノクローム作品で、瀬戸内の貧しい農民夫婦とその子供たち2人の計4人家族とその家の家畜である
数匹の豚、鶏、山羊しか住んでいない小さな島の物語。簡単な小屋のような家に住みながらただただ畑仕事をして暮らす一家、
島には水が出ない。それゆえ夫婦は毎日朝まだ夜が明け切らぬうちから手こぎの小舟で片道20分くらいの近くの島に渡り、桶に水を
汲んで島に戻ってくる。その後、天秤棒で桶をかつぎ、ゆっくりこぼさないように小さな島の斜面に作られた痩せた畑に水を運び上げる。
桶から柄杓で水をすくい上げ、乾ききった畑の土に少しずつ丁寧に、まんべんなく水を撒いていく。しかし砂地の痩せた畑はすぐに水を吸い
込んでしまう。子供たちを向かいの島の小学校に送ってそのあと水を汲み、また船で戻り、畑に水をやり、そしてまた水を汲みに舟を漕ぐ…。
自分たちの生活用水の分も含めて一日に何度もその重労働の作業を繰り返すのだ。。
そうやって気の遠くなるような膨大な手間をかけて採れるのは、小さな痩せ芋がわずかばかり。冬には畑に麦を蒔き、春にはそれを刈り
入れる。そんな貧しい農民一家の小さな島での春夏秋冬をカメラはほとんど音を排してただひたすら写す。時々尾道に上陸して、釣り上げた鯛を
売って、そのお金で買い物をしたり、不運にも主人公たちの長男が急病で亡くなってしまい、葬式の後母親が畑で慟哭する、というようなメリハリ
はあるが、やがてまた、すぐに、まるで何事も無かったように2人は静かに畑に水をかけはじめる。静かではあるが凄まじい人生がそこにある。
その寡黙な生活を描くためにこの白黒映画にはなんと台詞が無い。あるのは人々が笑う声やざわめく声、主人公の子供が亡くなってしまった
時の母親の慟哭の声、そして自然界の音だ。そしてそれらを包み込むような林光さんの作られたテーマ曲がいろいろな場面で時には明るく、
時には切なく繰り返し繰り返し編曲されて流れていく。このテーマ曲がほんとうに美しく力強い。
人が生きるということの原点を余計な物を排除してこんなにもストレートに力強く見せてくれた映画を私は他に知らない。
普通このような台詞を排した映像は、わざとらしさが鼻につくものだが、この映画はそうした『独りよがり』はひとつもない。各場面のあのような
簡潔な鮮烈さは、普通に台詞が録音されている映画では絶対に生まれなかったと断言できる。台詞を無くすことで、季節の移ろいや家族の絆と
いった普遍的な要素が、映画の中から浮かび上がってくる。台詞による説明が封じられることで、映画は無駄な贅肉が全て剥ぎ落とされて簡潔で
力強いものになっているのだ。撮影は全合宿制のオールロケで行われた。そんな撮り方は今でも昔でも皆無に等しい。
スタッフ、キャストとも、人生をかけていたのだ。
この映画は計画当初、全然スポンサーがついてくれなくて、新藤監督の「近代映画社」が自費を全てつぎ込んで決死の覚悟で作ったらしい。
誰も相手にしてくれなかったこの恐ろしく地味な映画は、後にモスクワ映画祭でグランプリを取ったあと、世界の国々で上映をされ、絶賛を浴びた
と言う。お陰で新藤監督たちも破産の危機を免れたそうだ。
主人公を演じた、乙羽 信子さんと 殿山 泰司さんは、新藤監督のほとんどの映画には絶対に無くてはならないふたり。なんともふたりの立ち
振る舞いと表情がよかった。本物の役者さんはその「姿」そのものが凛々しいが、まさに、おふたりは映像の中に見事にはまっていた。
と、いうことで、観終わった後、もちろんすぐに通販で『裸の島』のDVDを買った。今回の日本滞在中に買った『初恋のきた道』と『裸の島』は私の
宝物になるだろう。
いい作品にめぐり逢えてよかったと思う。
まあ、しかし、『裸の島』はひとによっては恐ろしく退屈な映画かもしれない、とも思う。なんせ、えんえんと水汲みの映像と天秤棒で桶を担ぐ
映像が流れるのだから…。もし私が人にいわれた通り、20代にこの映画を観ていたら、この映画にそんなにも感動しなかったのではないか。
「当時の貧しい農民は実に大変だったんだなあ…」程度にしか感じなかったような気がする。そしてもう2度と観なかったかもしれない。
絵を描くために、東京の教師を辞め、日本から遠く離れた東南アジアの熱帯の小島、バリ島に隠遁し、この弱肉強食の国で人の世の辛酸を
味わって14年を経た今だからこそ、あの映画の「本当」が、全身の見えない傷跡に染みこんでくるのだろう。
本当にめぐり合わせとは不思議なものだ。
(乙羽信子さんは新藤監督の生涯の伴侶。彼のほとんどの映画に出演された名優である)
2004年9月14日 瞬間風速40メートルの恐怖
ここ2週間ほど絵の展覧会と染織の展覧会で忙殺され、更新どころかパソコンを開けることもままならなかった。
ようやくちょっと時間が空き、超久しぶりに更新している。(予定が大幅に遅れてしまった…)
それにしても台風16号と18号は凄い風だった。特に18号のほうは富山気象台始まって以来の暴風で富山市で瞬間最大風速
が50メートル!!という信じられない強さだった。八尾町の私のアトリエも40メートルはあったと思う。私のアトリエはかれこれ築
100年になる古い町屋なので家中がガタガタ鳴って屋根も窓も吹っ飛びそうだった。家がつぶれるかもしれないと本気で思ったことは
今までの人生であの日だけだ。そこら中の店の看板が転がったり、吹っ飛んだりしていた。怖かった〜。
その前の16号の時はちょうど「風の盆」の直前で本番には台風一過でなんとか晴れたものの、訪れる人の数は3日間で昨年を6万人も
下回った。しかし、皮肉にもそのせいで、いつもの混雑はなく、比較的穏やかな風の盆だった。地元の人たちはこれくらいの人出のほうが、
自分たちの本来の踊りや演奏ができると、喜んでいたくらいだ。全く何が幸いするかわからない。
地元で開いた絵の展覧会のほうは油彩3枚、水彩15枚が売れたが大きな絵が売れず全体としてはギリギリの成果だった。オリジナルの
染織品の展覧会の方は昨年よりは落ちこんだがこれまたまあなんとかギリギリさばけたという感じ。昨年は結構好調で沖縄にも取材旅行に
行けたが、今年はそれどころではない。バリに戻るのが精一杯といったところか。昨年から今年にかけてはバリでも絵の売上が半分くらいに
減っていよいよ暗雲が私の身近に迫ってきたのかもしれない。昨年もそうだったが、いよいよもうだめか、と思った時にいいことが起きるので、
なんの根拠も無いが今年も未来を信じて楽観的に生きていこうと思っている。
(長年お世話になっているコレクターの I さんが買われた作品「おわら踊る娘X」)
2004年8月26日 涼しい日本になっていた。
8月19日から展覧会も兼ねて富山県八尾町の自分のアトリエに滞在している。暑い暑いと人が言うもんだから決死の覚悟をしてきたが、
なんのことはない全く暑くない。近所の人の話ではちょうど私が来た日ぐらいから涼しくなり始めたそうだ。エアコンは元々持っていないが、
ほとんど扇風機もつけずにすんでいる。夜は夏蒲団をしっかりかけて寝ないと朝型肌寒いくらいだ。まあ、体調が崩れなくてすみそうだ。
夜、毎年のことだが、時間が空くとレンタルビデオで観たかったDVDを借りまくって1年間のブランクを補っている。「半落ち」の寺尾聡さんは
よかった。ラストで歌っている森山直太朗さんの「声」という曲も光っていたので、思わず翌日アルバムもレンタルした。
あとは中国映画の「初恋の来た道」と、「あの子を探して」を堪能した。今の日本人にこのようなピュアな映画は作れないだろう。そのような
感覚が育つ土壌がないからだ。一途な思いがこもった佳作だった。中国映画恐るべし。
ところでおわら風の盆の取材に今年も取りかかっている。今年、八尾町は合併問題にゆれているが、それはそれ、おわらはおわらである。
ただ今前夜祭の真っ最中。
スケッチを元に油彩に起こしてみた。あわただしいなかで一気に仕上げる。これはこれでなかなか快感だ。
それにしても連日どこへいってもオリンピックの話題でいっぱい。こうたくさんメダルを取れば無理もない。普段あまり関心のない私も、
男子体操団体の最終演技者富田選手の鉄棒の「攻め」の演技には心底感動した。ああいいう人を『勇者』と、言うんだろう。
なんでもかんでも金メダルを取ればいいってもんじゃない。問題はその取り方だ。やはり最後まで自分を信じて攻める心を失わない人が
私たちに勇気を与えてくれる。
このあと風の盆の本番があり超多忙になりますので次ぎの更新は9月7日ごろになります。ご了承ください。
(おわら踊る娘V F4号 2004年)
2004年8月14日 ガルンガンの日に白い花が咲いた。
8月11日はガルンガンだった。ガルンガンとはバリヒンドゥのお盆のことだ。10日間ほどご先祖さんが降りてくるわけだ。
同い年の親友のアグンライが亡くなる1年前に植えてくれた白い花が今年も大きく咲いた。
それもちょうどガルンガンの日に開いた!彼は今、このあたりを昔そうしていたようにひょうひょうと散歩しているのかも
しれない。
先日宮嶋が気まぐれでほんの一時モデルになってくれた。短時間なのでいつもならクロッキーするところを、せっかくなので思い切って
油彩にしてみた。一時間くらいじっとしていたが、そのあと用事を思い出したらしく猫みたいにスッとどこかへ行ってしまった。もちろん
気まぐれでやってくれただけなので次の日は無し。1回こっきりこれで終わり。そのつもりで一気に描いたので、それなりに、動きが出た
気持ちのいい絵になった。これはこれで結構気に入っている。
御連絡: もうすぐ日本に一時帰国します。それゆえ次の更新は帰国してしばらくたった8月25日頃の予定です。
しかし私が日本に置いているノートパソコンは瀕死の重傷なので、ひょっとしたらもっと更新が遅れるかもしれません。最悪の場合はバリに
戻って来るまで更新できないかも…(^^;) まあ、大丈夫だとは思いますが、万が一の時は御了承ください。 m(__)m
また、ここ10日ばかりサーバーの調子がよくなく、一日のうちで1時間か2時間サーバーが不安定になりページが開けれなくなっています。
御了承ください。
( Mの肖像 F10号 油彩 2004年)
(花の後ろには彼の彫刻が置いてある)
2004年8月7日 3日間のために1年を生きる人々 ― 越中おわら風の盆 ―
毎年わざわざ帰国してなぜ自分は「おわら」を描くのかという必然性を考えることがある。
この行為はおわら好きの人々のおわらを見た印象と私の絵にどれだけの接点があるかどうかが興味深くて続けているようなものだ。
それらの反応を、スケッチの後すぐ絵を展示することによって、直に自分の眼で、自分のアトリエで確かめられるのも楽しく、
その臨場感を楽しんでいるのかもしれない。一種の私とお客さんたちとのコラボレーション(共同作業)となっているのだろう。
そのような状況がなかったら、踊りなど描くこともない。
いっそのことロダンが裸婦を描いたように、私もどこかのアトリエで裸婦を描いていたほうがよほどいい。
もちろん1年のハレの日を昂揚感に満ちて踊り、演奏する人々から発せられる強い張り詰めた線も魅力的なのは言うまでもない。
風の盆は毎年9月1日から3日間町中車も通行止めで夜通し繰り広げられる。八尾にある古くからの11の町(旧町)はこの3日間の
ために一年中、踊りと演奏を修練し、更なる向上を目指す。日本の他の場所の踊りどこがどう違うのかはこの北陸の山深い里に
足を運び、何日も夜通し見るしかない。
とにかく彼らはこの3日間のために一年を生きる。 これは嘘のような本当の話だ。風の盆の時は北は北海道から南は沖縄まで
たくさんの観光客さんがやってくるが、あくまでも町の人たちは自分達のために踊り、演奏している。それゆえ雨が降れば
胡弓や三味線が傷むのですぐに中止にしてしまう。一言でいうとおわらは媚のない「硬派」だ。
今年はオリンピックの年なので世界中そろそろ盛り上がっていると思うが、ここインドネシアは、期間中オリンピック放送も
しないらしい。ニュースでちょくちょく流すだけなのだ。ある意味これは珍しい国だ。まあそれはそれでいいだろう。
その、オリンピックが終るとこの「おわら風の盆」が始まる。こちらのほうが私にとってはメインイベント。
と、いうわけで、おわら風の盆を見るために今年も8月下旬に一時帰国する。
昨年のおわら風の盆のスケッチの一部を紹介した新しいページを作ってみました。
(おわら踊る若者 2003年 鉛筆に淡彩)
(おわらは女踊りが有名だが私は男踊りも大好き。何とも力強い)
8月3日以降しばらくの間、現地のサーバーが不安定で時々数時間ページが開けれないことがありますが、御了承ください。
インドネシアでは実に頻繁に起こることで、数時間後にまた見れるようになりますので、ねばって何度かアクセスしてください。
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2004年8月2日 おいちゃんのアリア −下條正巳さん−
男はつらいよの「おいちゃん」こと下條正巳さんが亡くなられた。享年88歳だった。全48作中後半の35作品でおいちゃん役をされた
方で、ほのぼのとした味のある安定感抜群の演技で、いつも寅を見守っている人だった。他の共演者を食うような自分を前に押し出した
演技は一切されず、常にとらやの全員のハーモニーを考えながら、静かな美しい演技をされていた。残念としかいいようがない。
そしてとてもさみしい。
以前、下條正巳さん、太宰久雄さん、前田吟さん、の御三人で約束されたとおり、山田組の誰にも亡くなられたことは知らせず、身内で
葬儀をされたそうだ。渥美さんも太宰さんも同じことをされたことを思うと、感無量になってしまう。私もかくありたいと思う。
10年程前、下條さんは何かの本に男はつらいよのおいちゃんのことについて確かこう書かれていた。
『山田監督に、心で演じなさい。と言われて、そのことを気持ちのなかに置いて30作以上出演してきたが、未だにそれが出来ない。
でも山田監督との出会いは、私にとって素晴らしいことであった。私を役者の原点に戻してくれたのだ。
当時、椎間板ヘルニアのため胡座がかけず、正座しか出来なかった私に、「そんなおいちゃんもいて良いんじゃないですか」と、
言ってくれた監督の一言が、私にはあるヒントになった。「そうだ。私なりのおいちゃんを演じていこう」と。』
そういえば、下條さん扮する3代目おいちゃんはそれまでのおいちゃんたちとは違って、きちんと正座をして茶の間でくつろいでいた。
ご本人は持病のためなのだろうが、観ている私には、きちんと筋を通し、けじめをつけるおいちゃんの一本気の性格がその姿に
表れていて大好きだった。おばちゃんも「固いことしか言えないのかねこの男は」と常々言っていた。(^^)
心からご冥福をお祈りいたします。合掌。
(下條さんはどこかしらカッコイイ「おいちゃん」だった。ちょっと微笑んだ時の眼と眉のたれ方が人柄をあらわしていた。素敵な人だった。)
下に私の大好きな下條おいちゃんのセリフを紹介しておきます。
第17作「寅次郎夕焼け小焼け」で宇野重吉扮する、2階のジジイ(実は池ノ内青観)にうなぎのことで説教したことを、とらやのみんなに回想し、
再現してあげるシーンだ。下條さんの表情豊かな柔らかい演技が印象的だった。
『うなぎなんてものはな、我々額に汗して
「だからオレは言ってやったんだよ 働いている人間達が月に一度かふた月に一度、 なんかこう…
@ A B
さあ、今日はひとつうなぎでも食べるかって
おめでたいことがあった時に。 大騒ぎして食うもんなんだ。
C D
お前さんみたいな一日中何もしないで家で
ゴロゴロゴロゴロしてる人間が うなぎなんか食ったらバチが当たるぞ。』
E F
そう言ったらな、あのおやじ、 『ほう、それもそーだな…』
G H
立ち上がってプ〜ッっと出て行っちまった。 フン!それっきりだい」
I J
おいちゃんのアリアでした。(^^)
ところで、話は変わるが、最近ウブドでDVD映画(もちろんコピー版)の安売りをどの店でもしていて、過激な競争が繰り広げられている。
今日息子は「スパイダーマン2」を買って来たが、なんと日本円で約180円だ!まるでレンタルビデオのような値段だ。
それらの店ではオリジナル版も売っていて、そちらの方は2000円ほど。この差は凄い。コピー版は厳密にいうと若干画質が落ちるが、
マニアックな人以外は気にならない程度。現在上映中の「華氏9.11」などもすでにウブドのどの店にも出回っている。ハリウッドの
大型映画が多いが、地味な名作も少なからずある。最近の宮崎アニメや座頭市などの人気日本映画もよく探せば結構ある。
あんまり安いので私も、息子に誘われてラストサムライや黒澤映画を買ってみた。1枚180円となると、無駄買いをしてしまいがちに
なりそうだ。(気をつけないと)
7月31日は満月だったが現在の気温は22度と低く、まるで日本の中秋の名月のような趣だった。そこらじゅうで宗教儀式(ウパチャラ)が
行われている。満月の夜空を眺めながら観るラストサムライもなかなか味なものだった。
(もうすぐバリはガルンガン『お盆』だ。今日は肌寒いくらいの夜だった。)
2004年7月26日 息子に誘われ王宮の巨大葬式(ガベン)を見に行く。
先週紹介したウブドで5〜7年に一度クラスの大きな葬式(ガベン)を24日に見に行った。だいたい、友人でもお世話になった方でもない
人の葬式を興味本位で見るのは気が引けるし、人酔いもするので、人の多いところは行かないことにしてるのだが息子が物心ついて
からはこれくらい大きなものを彼に見せてなかったので、見たがった。仕方なくちょっとがんばってテクテク30分歩いて見に行くはめに
なった。車はもちろん随分手前で通行禁止である。ちなみに亡くなったのは旧王族の最後の生存者だった女性で94歳くらいだったらしい。
旧王族の生き残りだっただけあって葬式は稀に見る巨大なものとなった。
到着すると、全ての道を横断する電線がすでに取り外され、遺体が巨大なタワー(パデ))に運ばれているところだった。
ちょうどいいタイミングだ。お坊さんのお祈りの儀式のあとすぐ、遺体と一緒に焼かれる牛(ランブー)が担がれ動き出し、パデも何百人
に担がれゆら〜っと動き出した。長い列のいたるところでガムランの演奏がうるさいくらいに鳴り響き、ワーッっという掛け声と共に、
相当早いスピードで神輿に加速をつけていく。焼き場までの約500メートルの道のりを声をあげて揺らしながら練り歩く姿はエネルギッシュ
だった。揺らすのはわざとで、魂を天国に導くための儀式だそうだ。おかげで歩道横の揚げバナナの店のガラスが粉々に割れたり、見物人
たちが押し寄せてきたパデやランブーに圧倒されて何人もこけたりで大騒ぎだった。熱中症にかからないように、道にも、担いでいる人の頭
にもどんどん水がかけられる。私や息子も自分でミネラルウォーターを頭にかける。大きな葬式はとにかく体力がないと見れません!
見物人と関係者を入れて5000人〜6000人くらいはいたと思う。道中凄い熱気で息苦しいほど。でも、風もまあまああって見た目よりも
涼しかったのが幸い。
焼き場に着くと今度はパデからランブーに遺体が移され、お祈りの後、思い出の品々と共にランブーごと一気に焼かれた。
2時間後、最後の最後はパデも梯子も作ったもの全てが遺体と共に焼かれる。この後骨や灰は遺族達によって夕方遅く近くの海に流される。
ちなみに、今回小さな庶民のグループガベンも一緒にとりおこなわれた。このように大きな葬式に便乗することはバリではよくあることで
庶民の経費削減にもなっている。
息子は見てよかったと感動していたので、無理して見に行った甲斐はあったと思った。ふー、疲れたー。これでもう今後5年くらいは
行かないと思う(^^;)
さきほどなんとNHKの夜のニュースの中ででこのウブドの葬式の様子が3分ほど放映されていた。結構日本でも注目されているんだな。(^^)
順不同で写真を紹介します。
(横切る電線を全て取り払って大通りを練り歩く。停電は約7時間に及んだ) (曇り時々晴れ、風有り。過ごしやすい天気だった。曇りの方がいい
(焼き場に着いたあと、パデから棺が牛のランブーに移される) (一番高い木に匹敵するくらい高いパデ。凄い迫力だ)
(パデから下ろされた棺をランブーの背中に入れる。) (ランブーの口からもうもうと噴き出る煙)
(王宮前で棺が家から巨大なパデに運ばれて、行進が始まる。焼き場まで500メートル。道中人で溢れかえっていた)
2004年7月21日 早くもウブドに日本の子供達が来た。
さっき、いつものスーパーマーケットに行ったのだが、日本から来た親子連れがが3グループほどいた。子供達は6人ほど。
みんな小学生くらいの年齢だったので、どうして今ごろいるのかな?と、不思議に思ったのだが、夜にNHKのニュースで
「今日終業式の学校が多い」って言っていた。それで納得。日本の夏休みまでまだまだあると、思っていたが早い学校は
先週の土曜で1学期が終っているのだ。これから旅行者が8月末までウブドにもどんどんやって来る。特に今年はここ数年
の中でもダントツ多そうだ。
近年はウブドにやって来る人もリピーターが圧倒的に多く。それもみなさん家族連れが多く、結構長く滞在される。ここに住
んでいる誰もが言うように、ウブドは昔より随分土地のパワーが減り、ミステリアスな部分が無くなってきたが、その分、子供
を連れた日本の旅行者の方々が長期滞在しやすくなってきてもいる。ホテルの数と質、バンガロウの数と質、スーパーマーケッ
トの数と内容、24時間病院、日本語の普及、コンビニ、歩道の完備、信号、外資系の宅配便、携帯電話の急激な普及、インタ
ーネットカフェの増加、日本料理店の増加、日本の旅行会社の進出、等々私が移住した14年前とは天と地の違いだ。赤ちゃん
連れの人でも結構安心して滞在している。治安もクタあたりと違いウブドはかなりいい。
ところで、今ウブドに滞在している人たちは運がいい。なぜならばウブドでも数年に一度あるかないかの大きな葬式が24日に
あるからだ。王族のおばあさんの葬式らしいが、まあ、とにかく規模がでかい。タワー(パデ)も遺体と一緒に燃やす牛(ランブー)
も、お供え物も何から何までスーパー級だ。ウブドに住んで14年になるが、これくらい大きな葬式はウブドでは2回ほどしか見た
ことがない。もちろん全て王族の直系の方々ばかり。これだけ大きくなると、葬式と言うよりはバリ島の一大イベントになっていく。
4週間以上も前から村中の人が集まって準備している。下に写っている巨大なタワーや牛などを人がそれぞれ百人以上で担いで
墓場まで持っていくのだからすごい光景だ。狂気ともいえる迫力がある。おそらく見物人だけでも5000人以上来るだろう。墓場に
着いたら全て作ったものは遺体と一緒に燃やす。骨や灰は夕方海へ流しに行く。私は3年前にこのウブドの外れのジャングルの中
に引っ越してからは人ごみの中に行くことや大きなイベントはあまり観ないことにしている。普段慣れていないので人酔いしてしま
うからだ。だから写真は準備中のものだけ。
(これくらい高さがあると、担いで練り歩く2時間ほど、道の電線は一時的に外されることが多い。もちろんその間近くの家々は
全部停電!誰もが興奮しているし、それくらいのことは当然のことと思っているので誰も気にしない。)
2004年7月13日 今年もバリザクラが咲いた。
昨日、敷地のバリサクラが満開になった。もちろんほんとのさくらではなく、バリの田舎に行けばどこにでも生息している木である。
名前も知らない木だ。私が勝手にバリザクラと名前をつけた。毎年7月の少し寒い時期になり、日本の秋のように枯葉がたくさん落ち、
敷地にススキが現れ始める頃、この薄ピンクの可憐な花をつけるバリザクラもちょうど満開になるのだ。バリは南半球なので熱帯と
いえども7月8月は少し涼しくて、夜の気温は、渓谷の上にある私の家で約20度だ。(一年で最も暑い雨季の終わり頃である2月、3月は
夜でも27度くらいある。)ちょうど今、日本は真夏日が続いて大変そうだが、ここバリ島は雨も少なく涼しい日が続く。
それにしてもこのバリザクラの木は繁殖力が強く、三年前に数本しか目立たなかったが、今年は十数本に勝手に増えている。それらが
ほぼ一斉に花を開かせる。今年は6年ぶりにたまたま用事で4月に帰国し、東京の花見を堪能したが、例年は8月、9月にしか帰国しない
のでこの時期に咲くこの名もないバリザクラをぼんやりテラスから眺めては、恥多きこの人生の来し方行く末を思うのである。寂しいといえば
寂しいが、これが自分の人生だと観念し、寂しいからこそ、絵が描けるのだと居直り、今はこの敷地に同時に来る春と秋をひそかに楽しんで
いる。
村の子供達や息子はこの時期に落ちる膨大な落ち葉を利用して毎週くらいに焼き芋を焼いている。今日も焼いていた。これがなかなか美味い
のだ。私は眺めていて、おこぼれをもらうだけだが、落ち葉の焼ける香ばしいにおいが日本の晩秋を思い出させる。今このHPで更新している、
「男はつらいよ」第10作『寅次郎夢枕』にも晩秋の信濃路を旅する寂しい寅次郎の姿が効果的に使われているが、私は小さい頃から、変わった
子供で、晩秋のなんともいえない寂しくもの悲しい夕暮れ時が大好きだった。別に何かいい思い出があるわけでも何でもないが、町を行き交う人
たちも心が春や夏のように浮ついていなくて落ち着いているように感じられ、子供心にもなんだか安らぐことができた。だから今バリは私の最も好
きな季節である。
(朝日に輝く名もない『バリザクラ』) (夕暮れ時から暗くなるまで焚き火をして焼きいもを作る息子)
2004年7月8日 久しぶりの村主催パーティに出る
先日村の寺修築のために寄付をしてきた。もうこの村に14年も住み続けているので、何かの時には少ないながらも寄付をすること
にしている。
日本ではそういうものは個人の自由だが、東南アジアでは、持てる人が助けるのは当たり前のこととなっている。もちろん、
私はお金はあまり持ってはいないが、それでもやはり村人の平均よりは持っているので、やはり寄付をしたほうがいいのである。
下世話な話だが寄付をしないのとするのとではその後の村での住み心地も若干変わってくるようだ。で、寄付をした際に時々額に
応じて村の役員がパーティ券をくれる。これは村の住人が寄付してくれた人々に対してお礼の気持ちも含めて夕食やビールを振舞
うパーティを催すのだ。もちろん、寄付をしているのでその券をもって入れば一通りタダで飲み食いできるようになっている。私は人見
知りなので寄付をしてもあまりそのようなところへは行かない方だが、息子が久しぶりに行きたがったので、数年ぶりに行ってみた。
パーティといっても、まあ平たく言えば村の超賑やかなな半野外レストランという感じだ。夜の7時過ぎに行くともう超満員で、ごった返
していた。各テーブルに村の若い女の子がいて、いろいろ注文を聞いたり、ビールを注いだりしてくれる。ちょうど私が小学生くらいの
時のクリスマスパーティといった感じか?ローカルな趣がかえって懐かしい感じがして落ち着く。日本にはもうこういう土着な集まりは
ないだろう。東南アジアならではの雰囲気だ。もちろん寺の修築のためのものなので、寺の前で開かれている。作る側も、来る側も
みんなこの村の人々がほとんど。だからお気楽なもんだ。みんな知り合い。調理場では私の前の家の家族達も手伝っていた。
料理はなかなか上手で美味しかった。息子はあまり賑やかなので呆れていた。
まあ、たまにはこういうところもいいだろう。それにしても山羊の串刺し盛り合わせは美味だった。
曽我さん一家がいよいよ、インドネシアに来ることになった。場所はジャカルタに決まったらしいがジェンキンスさんがかなりもう高齢
なので、医療の問題が実はちょっと心配だ。インドネシアの医療は、同じ東南アジアのシンガポール、タイ、マレーシアと比べると、
ちょっと遅れている。緊急の手術体制や検査の設備が不十分なのだ。最新技術を持った医者もなかなかいない。
生活面や言語、セキュリティはなんとかなるとは思うが…。ただ、インドネシアの中でもジャカルタはバリと比べて大使館がすぐそばにある
ので安心だと思う。医療だけでいうと当然バリよりももちろんジャカルタのほうがあらゆる面で整っている。しかし、健康でさえあればバリの
方が過ごしやすいとは思う。現地でのマスコミの過激な報道合戦だけは避けてもらいたいものだ。これはマジで危ない。日本ボケした
マスコミにこのことが理解できるかどうか…。
わたしも緊急の大病や、脳関係の大怪我をした時は覚悟を決めて死ぬしかない、と思って日々暮らしている。宮嶋や息子も同じだ。
この地に住むと言うことは、ある意味健康でなければやっていけないし、どこかで「覚悟」がいるのだ。特に熱帯はウイルスが異常に強い
ので、初めてこの国に数ヶ月以上長期滞在したものはたいてい1度や2度は危ない目に会う。その辺のところをどう予防対処していくかが
ポイントにもなる。
ちなみに、一昨日は大統領選挙だった。インドネシア初めての直接大統領選挙だ。つまり、今回から村人であろうが、農民であろうが、全
員が直接投票できるのだ。現職の大統領であるメガワティ女史は今回はそうとう苦戦が予想されている。軍人上がりのユドヨノ氏が強い指
導力を買われ、支持を集めているからだ。決選投票ということにになると、9月まで持ち越しとなる。
(ちょっと人酔いしたが、出された食事はどれもアツアツで美味しかった。左は私、右はその周りの人々。グループや家族連れが多い)
2004年6月29日 「男はつらいよマンガ」連載開始!
今、ウブドは今から葬式のシーズン。9月ごろまで続く。いたるところで葬式の準備が行われている。王宮でも大きな葬式が近々ある
らしい。シーズンと言っても別に人がよく死ぬ季節という意味ではない。(^^;)
日本人の場合は、人が亡くなるとすぐに葬式をするのが当たり前になっている。おそらく欧米もそうだろう。しかし、バリヒンドゥ
ではお坊さんがお葬式に適した時期や日をバリの暦に従って選ぶ。それでもお金がある家族は数ヶ月以内に行う。しかし、ほとんどの
村の人々は、莫大な費用を葬式につぎ込めないので、村ぐるみの「合同葬式」に頼っている。だから合同葬式直後に死んでしまった場合は
2年も3年も待たされることもままある。しかし、それはそれで費用を貯める時間があって内心ほっとしている家族も実は多い。それほどにも
葬式にはお金がかかるのだ。と、いうより彼らの一般的な年収と比べると費用はその4倍から5倍、6倍になる。ということだ。日本で、年収
の何倍もの葬式をする家族はほとんどいないだろう。高価な車や二階建ての家は我慢できるし、結婚式も超地味にできないこともないが、
葬式だけはそういうわけにはいかないらしい。それ以外にも日々のお供え物、寺の宗教行事などにお金がぼんぼん飛んで行く。ある意味で、
バリヒンドゥはお金がいる宗教だ。「男はつらいよ」じゃないけれど、「バリ人はつらいよ」、なのだ。
息子の新ページ、「男はつらいよマンガ」の連載が始まった。私の「男はつらいよ」依存症に少し感染したのか、彼は時々、
私と一緒に寅さんを観ることがある。普段は宮崎アニメやハリウッドスペクタル映画ばかり観ているが、寅さんもバカにしながらも
結構面白がっているようだ。それで4月に柴又に連れて行ったことがきっかけで、気まぐれで柴又訪問記のマンガ版を2つ、3つ
描いていたようだ。昨夜、そのうちの一つが完成し、新ページとして貼り付けていた。本来の「今日の4コママンガ」と兼用で貼り付け
ているところは、なかなか頭がいい。最近マンガの線が少しだが硬さが取れてきた感がある。ようやくちょっと進歩した、というところか。
あまりおだてるといい気になるので、横でちらっと見ては「なるほどね」とかなんとか言っておく。
「男はつらよマンガ」は1ヶ月に一度ほど更新するらしいです。バリっ子ですのであてになりません。
2004年6月24日 大きなナンカの樹に大きな実がついた
この敷地の中に大きな高いナンカの樹が何本かある。ちょうど宮嶋のアトリエのドアから真正面に見える。彼女は時々この
樹を描いているが、2週間前からしだいに両手に抱えなくてはならないくらい大きな実が何個か実り、今にも落ちそうだ。
近づくと甘い香りが漂っている。そろそろ食べないと!。ナンカの実は枝に実るのではなく直接太い幹に実る。だからとても
その格好が素朴でユニークなのだ。宮嶋も実がなるたびに、何枚も作品にしている。ただ見ているだけでも全く飽きがこない
強い存在感がある実だ。この実は英語でジャックフルーツとも言ってどこでも人気が高い。
バリ人はもちろんビタミンたっぷりのこの実をそのままデザートとして食べるが、それ以外でも料理にもしょちゅう使う。なんせ
ひとつひとつが大きいのでいくら食べても終らないのだ。私が1週間に一度は食べるナシチャンプルやパダン料理にもよくこの
ナンカの煮物はついてくる。特にパダン料理屋ではこのナンカのカレー煮は無料!で、いくらでも盛り付けてくれるからありがたい。
煮ると癖がなくて私はいくらでも食べれる。中に入っている大きな種もバリ人は調理して食べる。そして実以外でもその樹を切って作
られた木材はカユ.ナンカと呼ばれ、バリ建築にはなくてはならないものだ。(カユは木材という意味。)色艶が実によくて見た目も重
厚なので部屋の入り口のドアによく使われている。私のギャラリーのドアもこのナンカで作ってもらった。旅行者にとって熱帯の果物と
いえば、マンゴやパパイヤなどが出てくるのだろうが、ローカルな私などはしっかりとした歯応えのあるこのナンカの実を思い浮かべ
てしまう。
( アトリエから見たナンカの樹と実 ) ( ナンカを描いた作品
宮嶋紀子 作 2004年6月 )
2004年6月16日 霊峰アグン山が見えた!
昨日は夕方の光がことのほか綺麗だった。こんな日はアグン山(標高3100M)が見えることが多い。ギャラリーの近くまで行って
みると案の定見事に霊峰はそびえたっていた。バリヒンドゥにとってこの山は世界の中心なのだ。敷地の建造物の位置も、宗教行
事も全て、このアグン山の方角を中心に考えられている。
7年前の雨季にあの山の頂上に登り、下山途中で文字通り死にかけた私にとってこの山は私の人生の分岐点に関わることと
なった思いで深い場所だ。(バリ日記のバックナンバー参照)あの時、私は一度死んだ、と、今でも思っている。
だから、私はあの日以来、無理をしないで、人目も気にしないでマイペースで生きるようになった。絵のこともそうだ。自分の好き
なように描き始めたのもこのことが最初のきっかけだった。だからバリヒンドゥでない異邦人の私にとってもアグン山は霊峰なのだ。
ほんとうに昔は何でもかんでも無茶をしたものだ。ジャワ島、アグン山、ヒマラヤのアンナプルナ、と3度も死に直面している。2年前の
北アルプス剣岳のときはさすがに無理をしないで安全登山を心がけたので何の問題もなく下山できた。無理をしなくなったというよりは
無理が出来ない年齢になったということだろう。まあ、これはこれでいいことだ。
子猫たちにようやく名前を付けた。黒トラは「プチ」ミケは「ミカ」白黒は「クロ」
2004年6月9日 電話がまたまた通じず250メートルの大修理
いやー、まいったまいった。いつものことながら、またもや5日前に電話が不通になってしまった。大通りに面した前の家はきちんと
繋がっているみたいなので、道から250メートル奥にある私の家だけが不通なのだ。これは実によくあることで雨季の時などは月に
一回はジャングルの中で修理をする。いつものように息子に手伝わせながら、電話線のチェック。電話局に頼んでもいつ来るかわから
ないのでこういう修理は昔から全部自分たちでやる。おそらく線の中に水がたまっているか、繋ぎ目がさびているのだが、今回はその
両方で、修理してもなかなか上手く通じない。こんなしぶとい不通は初めてだった。結局、最後は新しいケーブルをなじみの店で格安で
250メートル!新しく買って、一から繋ぎ直し、ジャングルの中を木につたわせながら丸一日かけて行った。計2日もかかってもうヘトヘト
だ。しかし思い切ってケーブルを新しくしたのでここ2年は大丈夫だろう。
ということで2日間インターネットが出来なかった。その分たくさん本が読めてよかったが。(ここバリ島は日本のような常時接続がなく未
だにダイヤルアップ方式なのだ。)
この地に住居を構えると、日本では一生経験しないようなことを毎月のように経験するはめになる。実に困ることも多いが、そういうサバイ
バル生活もなかなか面白いことも多い。ギリギリのところで智恵と経験と体力がものを言うこういう生活は、『自分』と言うものがよく見え
てくる。自然の中で弱い自分もしょっちゅう見えるが、意外にしぶとく粘る自分も発見する。
子猫達は今日から離乳食に入った。パクパクよく食べる。それでもやっぱりお母さんのオッパイの方が美味しいのかまだまだ吸っている。
しばらくはオッパイと平行させていくつもりだ。
こんな大きい3匹にしょっちゅう吸われてマリも命がけだ。(^^;)
2004年6月3日 一週間ぶりの快晴と満月
なぜか先週は毎日シトシトと雨が降リ続いた。雨季はもう1ヶ月ほども前に終っているのに、どうしてしまったんだろうか?
と、思っていると、3日前からまた晴れる日が続いてほっとしている。昨日の満月はスカッと晴れた夜空に白く浮かんでいた。
ウブドの王宮前は旅行者はチラホラ。大統領選挙が近いためか?ルピアのレートもなぜか下がっている。今後1ヶ月の間混乱が
予想されてはいるがそのせいか。先日の王宮でのスケッチを元に1時間ほどで油彩にしてみた。
ところで、さきほど、ニュースで見たのだが、インドネシアのハッサン外相は2日、読売新聞と会見し、北朝鮮による拉致被害者の
曽我ひとみさんと夫の元米兵チャールズ・ジェンキンスさんら家族との第三国での再会について、「我が国で受け入れる用意がある」
と述べたらしい。なんとそれもこのバリ島で!
外相は、「これまでに(日本政府などから)要請は来ていない」としながらも、「人道的問題である以上、当事者や関係国が希望す
るなら問題はない」と強調。具体的な場所については「バリ島が適地でないか」と言っていたとのこと。
インドネシアは北朝鮮の友好国で、米国とも犯罪人引き渡し条約を結んでいないので、ジェンキンスさんが入国しても、身柄を米国に引き
渡す義務はない。インドネシア政府が曽我さんを受け入れてくれて、セキュリティの問題や日本語、英語のスタッフを用意してくれるなら
ぜひバリ島で納得がいくまで生活してほしい。インドネシアも東南アジアのリーダーとしての貫禄を見せて、日本に好印象を与える
きっかけになってくれればと思う。ここ近年のバリ島の印象を払拭する意味でも大歓迎だ。でもちょっとバリはハードかなあ…。
宮嶋が新作の絵をアップしたが、今回から短いコメントが入るようになった。彼女にしては超!珍しく週に1回ぐらいの新作とコメントのアップを
目指しているようだ。いつまで続くかはわからないが(^^;)
6月3日から「男はつらいよ覚え書ノート」がヤフー推薦サイトに載ったがそのとたんに男はつらいよのページが凄いアクセス数になり驚いている。
なるほどなあ…。
宮嶋の新作とコメントはこちら(works T) で見れます。
( ウブド王宮前風景 F 15号 油彩 2004年 )
(今日の月はスッキリと白かったので息子は高画質で撮っていた。たまにはこういう月もいいだろう。)
2004年5月29日 究極の隠れ家「 アマンキラ AMAN KILA 」
昨日、宮嶋の2番目の画集『MIYAJIMA NORIKO」(2002年セニワティギャラリー刊)が今年に入ってからもコンスタントに売れていっている
ことをセニワティギャラリーのスタッフに知らされた。タイトルにバリという名前が入っていないので、旅行者は滅多には買わないと思っていたの
だが、中身を見て気に入る人が多いらしい。セニワティギャラリー内はもちろんだが遠くアマンキラでポツポツ売れていると知らせてくれた。
アマンキラは、画集が刊行された折、セニワティギャラリーが記念企画個展としてアマンキラの美しいギャラリー兼ライブラリーで2ヶ月間
もの間、宮嶋の絵を17作品ほど展示した思い出深いホテルだ。(当初1ヵ月の予定だったが、好評につき2ヶ月に延ばしたのだった)
アマンキラはバリ東部の海岸沿いの丘に立つコテージ数25くらいのリゾートで、この丘はアマンキラだけのために存在し、ウブドからもクタから
も恐ろしく遠いので、よっぽどのんびりしたい人しかそこへは来ないらしい。おまけに超高級リゾートなので来る人がますます限られるわけだ。
そんななかで、ウブドなみに本が売れていっているというのは静かな究極の隠れ家であるアマンキラを求めるお客さんの心と宮嶋の絵の趣が
一致するということか。静かなたたずまいに心が休まるのだろう。なるほど、である。
アマングループのなかではウブドの私の家の近所にあるアマンダリが有名だが、アマンキラからの海のながめもなかなか一見の価値有りだ。
そしてあのプール。普通私はホテルを見て美しいと思ったことはあまりないが、アマンダリのプールと森の関係、アマンキラのプールと海の関係
はほんとに美しい。
子猫たちは徐々に大きくなっているが。時々お兄さんのプリン(4ヶ月)が子猫たちと一緒にマリのおっぱいを吸っている。息子も宮嶋も見張っ
ていて気づくたびにしょっちゅう追い払うのだが、プリンは体は大人になったが本当はまだオッパイを吸いたい年頃なのだろう。困ったものだ。
とほ。
ちなみに宮嶋紀子のアマンキラでの企画個展風景はこちらで見れます。↓
宮嶋紀子展 −静かなLibrary−
Miyajima Noriko solo art exhibition
at Aman kila in Bali 2002
丘、海、島、とプール、建物が見事な調和を醸し出している。 海の向こうをロンボク島行きの船が行き交う。
2004年5月24日 油彩「午後の渓谷」
雨季もすっかり終わり、ここ一週間は自宅の敷地から久しぶりに渓谷を描いてみた。一ヶ月ぶりに描く渓谷は新鮮で、2度ほど
乾かし、それぞれの位置の関係が合ったのでタッチが残っているうちに筆を置いた。絵が小さくまとまる前に筆を置くことは実は難しい。
この絵は結構気に入っている。
夜は相変わらず本を読む息子を描いている。
宮嶋も偶然、同じ渓谷の絵を描いていた。彼女のページにアップしてある絵がそれだ。静かで空気感のある画面が広がっている。
同じ風景を見てもよくもまあこれだけ違う表現になるなあ、と、個性の違いにいまさらながら驚いている。
ウブドはゴールデンウィークの賑わいも去って、いつものように静かな日々が続いている。それでも旅行者は結構たくさん歩いているので
昨年よりもずいぶん来ている気がする。そのわりには絵の売れ行きはボチボチなのだが。とほほ…だ。
生まれた子猫はずいぶん大きくなってきた。名前はなんとなくぼやぼやしててまだ付けてない(^^;)ゝ。
宮嶋の「渓谷T」は宮嶋紀子作品(T)で見れます。
(午後の渓谷U F 12号 油彩 2004年)
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