まつこ
2006年12月31日 隠されたリアリティ 「嫌われ松子の一生」
バンコクからようやくバリに戻ってきた。
今回のバンコク行きはインドネシア側の長期滞在ビザの法規改定により、仕方なくたった2ヶ月で再出国し、
新しいビザを取りに行くという最悪の事情で、心も沈んでいたが、さすがバンコク。クリスマスの1週間前から
この巨大な街はどこも華やかなイルミネーションとオーケストラの生演奏などの数々のアトラクションもあって
実にみんな楽しげだった。
私は、昔からクリスマスや正月といった行事ものが大嫌いだが、自分が参加しないで、はたで見物している分には
そう悪い気もしないから不思議だ。
それと、日本の民放テレビがリアルタイムで見れるようになっていたのには驚いた。お陰でDr.コトー2006の
最終回をリアルタイムで見ることが出来た。(第10話まではレンタルで借りて見ていた。)
なんだか儲けた気分だ。夜は結構時間に余裕があったのでレンタルDVD屋でいろんな映画やテレビドラマを借りまくって
見ていた。30本くらいは見た。倉本聡さん脚本のテレビドラマ「優しい時間」も全話見た。寺尾聡さんはいやはや全く
近年ほんとうにいい。お顔がますますお父さんの宇野重吉さんに似てきた。
そんな中、軽〜い気持ちで見た映画「
嫌われ松子の一生」は意外にもバンコク滞在中のベストワン作品だった。
監督はあの2004年の「下妻物語」で奇妙な女の子の友情をシュールにそしてポップに描いた
鬼才
中島哲也監督。「下妻物語」の初々しさは飛びぬけていい!
彼のアクの濃さにアレルギーを起こす人は今でも数限りなく存在するのだろう。真面目な映画ファンならなおさらだ。
狂ったような粘着質な密度と極彩色に吐き気をもよおし、席を立つか、さもなくば涙を流し感動するかどちらかだ。
とにかく中途半端なきれい事の監督さんではない。どんな悲惨な物語も全てリアリティをもぎ取って
「作り物」として見せようとするエンターテイメントな感覚は、ある意味山田洋次監督とは逆の感覚である。
ただし、ひとつひとつのカットに気が遠くなるくらいにこだわり続けるところが似ているともいえる。
ほんと文字通り、気が遠くなるくらいにだ。この中島監督の感覚はこの作品の中の音楽作りにも、美術にも、キャメラにも
全て伝染し、アリ地獄のような底なしの恐ろしいまでの密度が展開されていた。
それにしてもこの映画は一つのシーンにおける情報量が異常とも思えるくらい膨大なのである。
さすがCM作りに長年携わってこられているだけあって映像の最前線にあると思われる「硝煙の臭い」が
スクリーンに立ち込めていた。中島監督は明らかに闘っている。自分のイメージを超えようとしているのであろう。
今の日本の映画監督でこのような闘う姿勢を果てしなくとり続ける監督さんは、はたして何人いるだろうか。
おそらくほとんどのカット、和やかに楽しく撮ったなんてことは皆無だったのではないか?
あのような密度の濃い映像を実現するためには生半可な覚悟では絶対不可能だ。それは物作りに携わった人なら
必ず分かるはず。まったく感覚は真逆のように違うが小泉堯史監督なども最前線の硝煙の臭いがする。中島さんが
ギラギラした目で激しく闘っているとしたら、小泉さんもまた静かに粘り強く闘っているのだ。
とにかく先ほども書いたがこの「嫌われ松子の一生」にはある意味「リアリティ」がない。全部が「短い作りもの」のモザイクで
構成されていると言ってもいい。しかし、その奥底に密かに棲みついている「ほんとう」が透かし模様のように見ている私の心を
揺さぶり続けたのである。
ハイテンポのコメディと最高質のミュージカルという派手なエンターテイメントのデコレーションの中に密かに棲みつくこの
「隠されたリアリティ」こそ中島監督が実は最も力を入れた部分であろう。
その「核」が松子が死んだ直後の夜のカットからエンディングロールの終わりまでの12分間に凝縮されている。
蝶々となった松子が荒川を上流へと登り、過去の数々の自分に遭遇しながらいつしか懐かしい故郷の筑後川とだぶり、
そしてずっと後悔し、想い続けていた妹に会いに行くのである。この部分の映像は他の映画の追従を許さないほどの幻想美だ。
NHKの「新シルクロード」でウイグル自治区を真っ赤なパラグライダーを操りながら飛び、鮮やかな映像を見せてくれた
モーターパラグライダーカメラマン
矢野健夫さんの神秘的とまで言えるあの映像がこの映画に魂を入れた瞬間、
中島ワールドはようやく完成したのだ。ヘリコプターやセスナではあの映像は絶対出せない。人間がそのまま空を飛び撮った
映像というのはやはり限りなく美しくいとおしい。
だから、実は…、何を隠そうこの物語の勝利は矢野健夫さんの勝利である。
そしてエンディングロール、めまぐるしく映像が変わり、全てが凝縮され映し出される。
この、これでもかと畳み込む果てしなくしつこい走馬灯的エンディングロール。音楽編集をはじめとしてその運動神経は
見事の一言だった。もうやめてくれ〜、エンディングしつこ過ぎ!という方も多々いると思われるが、私にはあのしつこさは
快感以外の何物でもない。その証拠にバンコク滞在中、あのエンディングロールを合計十回以上私は深夜に見続けたのだ。
全く見飽きない。私はしつこい作家さんが大好きなのだ。中島監督はこれだけの集中力を今後映画作りで果たして出せるの
だろうか。「足し算」の演出としてはこのへんが人間の限界である。
主演の川尻松子を演じた
中谷美紀さんもまた、現地点でこれ以上の集中力と冴えはもう当分出せないだろう。
中島ワールドが伝染し、オーラが出すぎるくらいに出ていたからだ。もしこれ以上出すとしたら、今度は別の形で、
別の次元で出すしかない。「体当たり演技&足し算の冴え」としてはもう限界である。そして人生の醍醐味「引き算の演技」は、
今度は膨大な歳月と膨大な人生経験が必要だ。なりふりかまわない必死の演技ではもう超えられない壁がこの向こうに
そびえ立っている。ただ、これだけの冴えゆえに中谷美紀さんの人生の代表作は間違いなくこの「嫌われ松子の一生」に
なるのかもしれないが…、実は人生はまだまだ長い。「引き算の演技」の体得が叶う日が来ないとも限らないのだ。
あのルネッサンスの彫刻家ミケランジェロにはふたつの代表作がある。若き日の、この世で目に見えるものを全て表現した
誰もが認めるあの有名なヴァチカンのピエタと、目に見えないものを表現した最晩年、死の3日前まで彫っていた
ロンダニーニのピエタである。ミケランジェロの最高傑作はこの、目に見えない世界がこの世に存在することを私たちに
知らしめてくれた最晩年のロンダ二ー二のピエタのほうなのだと私は思っている。
ともあれ、この鬼才の監督もこの溌剌女優もこの世の「見える世界の物語」を鮮やかに描くことに一応の成功はした。
そしてこの先にある「見えない世界」のなんと果てしないことか。これはさすがに十年や二十年じゃ描ききれない。
この先の世界はテクニックやその場の頑張りが作品を作るのではない。その作家の、その俳優の「世界観」が作品を作るのである。
そう意味ではこの「嫌われ松子の一生」はちょうど表側だけの成功とも言える。
世阿弥が一生をかけて追い求めた世界が、渥美清さんが命を削りながら孤独のうちに追い求めた世界が、そしてミケランジェロが
示してくれた世界がその先にあるのだ。
2006年12月10日 風に揺れる洗濯物
ようやく長いバリのお盆が終わった。
昨日はクニンガンと言って、天国から地上に帰られていた人々が、天国に戻られる日である。
そして再びラワールを食べる日でもある。たくさん食べてしまったのでちょっと体重が増えたかも…。
さすがにここ一週間はいよいよ雨が降るようになった。これで完全に雨季到来だ。夜はかなりきつく降る。
しかし、今日はずっと晴れた。12日からのバンコク行きが近いので、洗濯をたくさんした。バンコクへは
半月ほど滞在する。雨季の中の晴れ間は貴重だ。風も強かったのであっという間に乾いた。
洗濯物が風に揺れている光景を眺めていると、ある映画の一シーンが頭をよぎる。
映画「男はつらいよ」、第32作「口笛を吹く寅次郎」のラストシーンだ。
偶然再会した寅と熊さん。熊さんは以前奥さんに逃げられて悲しんでいた。寅はそんな熊さんを慰めていたのだ。
そして今、熊さんは因島大橋工事現場で働いているのだった。なんと娘さんの傍らには職場で知り合った
再婚相手のあき竹城さんが笑っている。このあき竹城さんの楽天性が鮮やかである。
彼女は第26作「寅次郎かもめ歌」でも物語のラストを明るく締めくくってくれるが、ひとつの
物語のラストを鮮やかなハッピーエンドに変えてくれるスケールの大きな役者さんである。
やはり、ハッピーエンドの女神は、あき竹城さん、そして第14作の春川ますみさんだ。
この映画のなんともいえない奥ゆかしい深みは、このような本物の役者さんがさりげなく
しめるべきところでしめていると言う点にも現れている。山田洋次監督はこのような役者さんの
力を引き出させるのが天才的に巧いのだ。
あき竹城さんは叫ぶ
「あれー!!洗濯物とぉり込むの忘れたよぉ〜!」
そしてラストに映る風に揺れる3人家族の洗濯物。
私は第32作「口笛を吹く寅次郎」の中で、どのシーンが一番好きかと自分に問うた時、
実はこのラストの風に揺れる洗濯物のシーンなのである。
まあもっとも、こんなこと人に言っても、物語の本流と関係のない、なんでもないこの洗濯物の
シーンがどうして一番感動するのか説明が厄介なので、そういう時は、同じく最高に切ないシーンである
寅と朋子さんの柴又駅での別れを言うことにしている。
しかし、ほんとうは、あの風に揺れる洗濯物の風景の中にこそ人間の営みの真実がある。絵を描くなんて
行為はあの風景の中に吸収されてしまうほどちっぽけな行為なのかもしれない。
第32作のシーン2つ 龍太郎 作
10月12日より16日間バンコクに用事で出かけます。
その間、バリ日記、覚え書きノート、寅次郎な日々などは
お休みです。次回更新はすべて12月30日ごろになります。
2006年11月29日 アンパンを食べる寅次郎
10日ほど前にアップしたアニメーション「矢切の渡し」が評判いいので、気をよくしたのか、昨夜からまた息子は
新しくアニメーションを作っていた。覗くと、どうやら第27作「浪花の恋の寅次郎」のある場面を作っているらしかった。
あの物語の序盤、瀬戸内の小島で寅が高台から海を眺めながらアンパンと牛乳を食べるシーンがあるのだが、
あのゆったりとした時間の中の涼やかなひと時がどうやら気に入っているらしい。
今夜早くも作り終えていたが今回も前回同様結構風を感じる作品に仕上がっていた。
で、今回も採用ということで、このバリ日記でも紹介します。
タイトルは「アンパンを食べる寅次郎」だそうだ。そのまんま(^^;)
息子は、寅の服やズボンにも風がそよぎ、ちょっとめくれたりしているのが気に入っているようだ。
アンパンを食べる寅次郎 龍太郎作
2006年11月26日 『家路』 雨季なのに雨季じゃないような…。
あと3日でガルンガンだ。ガルンガンとは日本でいうお盆。ご先祖様が地上に戻ってくる期間。
バリの人々は、今日あたりペンジョール(七夕のような竹飾り)をどの家も作っている。
明後日は儀式料理のラワールを早朝に作る。そして3日後はガルンガンだ。そして2週間ほど
の長いお盆がはじまる。私がバリに住み始めた17年前は、このガルンガンの間は、どの店も
休みがちだったが、近年は大型スーパーはもちろんのこと、ちょっとした店も休まなくなった。
私にとっては生活が滞らなくて安心だが、なんだかバリがバリでなくなっていくのが淋しくもある。
もうさすがに雨季なのに、なかなか雨がまとまって降らない。それで、時々断水がある。
それも毎回半日は水が出ない(TT) こっちもそれように防衛して3日間持つ貯水タンクを常備してはいる。
しかし、雨が降らないお陰で今日も田園の絵を描けた。絵を描くという行為も高揚感があっていいが、
夕方の涼しい風にただボーッと吹かれるのもいいものだ。
最近絵をアップしてなかったので、とりあえず今日描いた絵を載せましょう。
絵が上手くいったかどうかは時間が経たないと私にはわからない。
「家路」 2006年11月26日 油彩 F6号
11月27日 追加 記事
私の家の近くに住むアグンライのおじいちゃんとお孫さんがペンジョールの飾り物を作ってた。
ちなみにこのおじいちゃんは、私の絵のモチーフとなっていつも活躍してくれている。TOPページに
貼り付けてある「バリの農夫」もこのおじいちゃん。亡くなった私の親友のアグンライの父親でもある。
2006年11月18日 大人1クリック、小人も1クリック
ようやく時間の流れがいつもの緩やかさになってきた。ここ4日間ほどは田んぼの夕焼けを描いている。
上手くいかなかろうが上手くいこうがお構い無しに、絵が描けること、それ自体が至福の時間だ。
雨季にもう入っているはずなのになかなか大雨にならない。しかしお陰で絵の制作ははかどる。
上にも書いたがいい絵になるかどうかは別。
息子もここ1年くらいは結構忙しそうだが、今日の夕方から超久しぶりにこのHPのために
ミニアニメボタンを作ってくれた。数年前、春に江戸川に行ったときの印象を表現していた。
『風そよぐ矢切の渡し』だそうだ。ここを押したら『男はつらいよ覚書ノート』の一番上に行くようになっている。
絵の中の看板を見てみると『大人1クリック、小人も1クリック』と書いてある。このへんが私の発想では
出てこない馬鹿馬鹿しさ(^^;)面白いので何も文句を言わずそのまま採用した。
木の葉が揺れて、小舟も揺れる。
新緑の頃、もう一度あの舟着場に行きたいと思う。
風そよぐ矢切の渡し 龍太郎作
2006年11月5日 恐るべき数寄者の眼 − 青山二郎展 −
私はバリ島の部屋の壁に、先週から「青山二郎展」のポスターを貼った。
日本を出発する直前の10月13日に何時間もかけて滋賀信楽の山の中にあるMIHOミュージアムに立ち寄ったのである。
もう信楽の山々はすっかり秋の気配で、5年前に剣岳で感じた以来のなんとも美しい透き通った日本の秋だった。
私は日本の秋が大好きである。自分が生まれたこの秋という季節があるばかりにいつも日本に帰りたいと思ってしまう。
それならば日本に住めばいいと思われるだろうが、絵を描くとなるとやはり今の日本では、なかなかインスピレーションが
湧きづらいのだ。それでももういい加減日本を中心に考えて生きたいとも近年は真剣に思っている。
まあ、それはそれとして、MIHOミュージアムで開催されていた『青山二郎展』は本当に見てよかった。
日程が限られていたので大阪市立美術館のスペイン絵画展の『ベラスケス』を選ぶか、青山二郎展の『唐津盃』を
選ぶかの究極の苦しい選択を迫られたが、ベラスケスはプラド美術館で一度すべて見ているので、青山二郎の方を取った。
しかしまあ、一人の人間が人生を通して命がけで選んだ物というものはまことに凄みがある。
中国古陶磁、李朝白磁、日本の骨董…どの器にも選んだ眼をひしひしと感じることができた。形が鋭敏でそのくせ
ゆったり、たっぷりしている。その究極は李朝白磁丸壷の中で青山さんが『白袴』と記した器である。あのようなジャープで
かつ有機的な、タメのある不思議な形は西洋的な感覚では出せないものだ。レオナルドやミケランジェロもあのような形は
出せていないと思う。
そして遂に見ることが出来たあの小さな小さな『唐津盃』
手の平にすっぽり入る小さく、なんでもない形。それなのにやはり紛れもなく強い形態。
青山さんはこの盃を「人が見たら蛙になるよ、と言いたげだ」と呟いていたと言われる。
それほどにもなにげなく、そして味わい深い。これに限らず、青山さんの眼にかなった唐津盃は
どれも文句なしにいい。
緊張感のある危ういバランス。何万という器の中から彼の『眼』が選んだものは青山さんその人そのものだと思えた。
かの小林秀雄さんが「僕たちは秀才だが、あいつだけは天才だ」と言い切った男。それが青山二郎さんである。
青山さんに小林さんは痛烈に文章や骨董の眼を批評されては何度も目の前で涙をこぼしたらしい。
彼の感覚を最も愛した愛弟子の白洲正子さんは青山二郎さんのことを「生涯を通じて本業を持たず、何もせず、
何も遺さず、『数寄』に命を賭けたと言っても過言ではないだろう」とエッセイの中で書かれているが、まさに
「何者でもない人生」から選び出された数寄者ならではの切れ味を、それらの器を見るごとに感じてしまった。
こんなに感動した展覧会は何年ぶりだろうか。ここ十年の中ではこの『青山二郎展』が飛びぬけている。
私は昔から日本に帰るたびによく東京博物館で国宝展などを見たが、なるほど立派な器が並んではいるが、
当然ながらそれを発見し、選んだ人の『眼』『感覚』というものは感じられない。名品ばかりをとりあえず集合させた寄せ集め
だからだ。眼は言葉であり、美の発見は個人の眼を通しての一期一会の真剣勝負なのだと今更ながら思う。
このMIHOミュージアムには常設もあって、東洋やペルシャ、エジプトの古代美術がたくさん展示してあったが、
どれもあれらの器を見た後では生ぬるく、一つとして青山二郎が選んだ器たち以上の感銘を私に与えなかった。
そればかりか、そのあと大阪で西洋の名画たちを画集で見たが、あの器たちを見た後では、ほとんどの絵は頼りなく、
ただそこにあるそれだけのものにしか見えなかったのである。つまり私は青山さんの眼によって吸い寄せられた
ものたちを見て宇宙の広がりを感じたのだろう。こんな体験は初めてだった。
青山さんの眼とはなんと恐ろしい眼なんだろう。
かつての日本人はあのような『眼の文化』を持っていたのだ。
このMIHOミュージアムの設計はあのルーブル美術館の前のピラミッドやワシントンナショナルギャラリー東館を設計した
人だそうだ。広大な山全体を使ったゆったりしたしかし雄大な設計であった。
ほぼ実物大だと思う。 口径4、8cm 唐津盃 桃山時代
李朝白磁丸壷 銘「白袴」 高さ23、0cm
教育
2006年10月31日 今日なら間に合う、明日なら遅い
以前山田監督の「15才.学校W」を見た時にちょっとひっかかったことがあった。
それは人間関係に悩み不登校気味の主人公の少年が家出をし、旅を続ける中で、
人間として成長していく過程の最終段階として、家に戻った彼はとりあえずまた中学校に
ちょこっと行き始めるのである。あの結末を見て傷ついた子供はたくさんいただろうな…、と
まず思った。
あれはある意味、学校へ行くこと(戻ること)が良いことのように取ろうと思えばとれるのだ。
少なくても学校へ戻らないよりは戻った方が気持ちが元気になったとか人間的に成長したと,
つい思ってしまう。実は学校という袋小路から開放されたゆえに元気になる子供たちはたくさん
いるのだ。いじめや人間関係の軋轢で不登校になり、悩んでいる子供たちを元気付けるのは
あのような学校復帰の映像ではないはずだ。
学校という組織は、本音の部分は、地域作りや国作りのためにまずあるのであって、
その子供本人のためというのは実は二次的なものとも言える。
ここ数ヶ月でいじめを苦に自殺してしまった子供たちがかなりの数出てしまっているが、
本気でその子を守れるのは友人や担任でなくギリギリでは親だと思う。
親は子供がうすうす学校でいじめられていることを知っていることが多い。子供が帰宅後も
毎日家でも悩み、時には泣いて苦しんでいることを知りながら親はつい今日も子供を学校に
送り出してしまう。親自身も仕事が相当忙しいのだろうし、子供に対しても、もっと何事にもくじけないで
強くなって欲しいと思うから「気にするな」とか「負けるな」とか「先生に相談しろ」とか適当なことを言って
今日も、そして明日も学校に送り出すのだ。
今現在、いじめで真剣に悩んでいる子供が私のこの日記などを読むはずがないとは思うが、
もし万が一たまたま読んでいてくれたとしたら私ははっきり言いたい。
明日学校に行くことがもしある意味『地獄』ならば、明日から学校を全く行かなくていい。
後に元気になってもまだ行きたくないならば、ずっと行かなくていい。行かなくても実は
人生では死ぬほどには困らない。少なくとも『生き地獄』には絶対にならない。
誰がそのことに反対しても、私はそんな学校に100パーセントいく必要などないと
言い切れる。学校は君のためになどない。君は学校に御奉仕する必要は全くない。
そして親はそんな子供を100パーセント支持してやって欲しい。どこの世界に
『地獄』に毎日子供を送り込む親がいるだろうか。仏教で言う人間の苦しみの中に
『
怨憎会苦(おんぞうえく)』というものがある。ある人と会いたくないのに会い続けねばならない
苦しみである。これは本当に苦しい。ましてや一対多数の怨憎会苦だ。
学校はある子供たちにとっては『楽しいところ』だが。別の子供たちにとっては正に『地獄』なのだ。
お願いだから不登校の子供たちの最終目標を『学校復帰』などということにしないで欲しい。
不登校の子供たちの最終目標などないのだ。目標などというカッコいいことを決めてプレッシャーを
与えないでほしい。今精神の限界に来ている子供たちにまずしなくてはならないことは、
『今日から学校休んでいいよ。もう学校へ全く行かなくていいんだよ』と言える親かもしくはそれに近い
親しい大人の存在である。
よく、マスコミなどが、親と担任、学校を交えた話し合いや文章交換によるいじめ事実の客観的な把握や
カウンセラー通いや担任を交えた加害者たち(その親も含む)との相互理解、教育委員会への直訴などを
しゃべったり書いたりしているが、そんな悠長なことはそのあとのずっとあとで十分である。
まずはなんらかの理由で『地獄』を味わっている子供を親は抱きしめ、自分は子供の『完全な味方』で
あることをはっきり言ってあげ、学校へ行かなくていいということを自信を持って子供に言ってあげること
である。のんびりとカッコいいことを思わないでほしい。閉鎖的な空間での一対大勢の恐怖を自分も子供の
身になって想像してほしい。ひょっとして一刻を争うことなのだ。
そして親は自分の仕事を一時中断して、子供を守ってやってほしい。会社なんて休んだって、本当は
誰かが貴方の代わりをしてくれるものだ。会社などよりも自分の血を分けた子供の方が大事に決まってる
ではないか。子供と一緒に静かな闘いを始めてやってほしい。
『学校に行かなくていいんだよ。私と一緒に居よう』と言ってやってほしい。
『今日できること』はこのことしかない。今なら間に合うのだ。明日はもう遅いかもしれない。
猫も人間も最後の最後、子供を守れるのは親
2006年10月21日 あなたにも神のお恵みがありますように
とにかく、テロや暴動に会うことなくなんとか昨日バンコクからバリに戻ってきた。
神のお恵みがあったのかもしれない。昨年はちょうどバリに着いた日にテロがあったので
気にしていたのだが、とにかく何事もなくてとりあえずほっとしている。
しかし、今回からビザに関する規制が厳しくなり、外国人の長期滞在が一層難しくなってきた。多くの外国人が
泣く泣く出国していった。
私も今までのビザでは上手く行きそうにないので、12月頃に一度近くの海外に出てビザを変更してくるつもりだ。
神のお恵みで思い出したが、今日は日本ではBSで第35作「寅次郎恋愛塾」が放送されるのだろう。
あの作品の江上若菜さんは素敵な人だった。見た目はひょろっとキャシャだが中身は一本気な性格で、
野球が上手くて、浴衣が似合って、行動力もある。
なによりも樋口可南子さんは美しい…。そして彼女は近年どんどん美しくなっている。
樋口さんで一番思い出すのは「阿弥陀堂だより」である。あの映画で彼女は何かを掴んだと私は見ているのだが
どうでしょうか。近々その「阿弥陀堂だより」も紹介しようと思っている。
そしてこの「恋愛塾」はポンシュウこと関敬六さんが大活躍する作品でもある。
長崎県、上五島での顛末はなかなか見ごたえがある。
はっきりポンシュウと何度も寅から呼ばれ始めるのもこの頃から。
寅「おいポンシュウ!ここどこだ?」
ポンシュウ「九州だろう?」
この物語では焼酎を一気飲みしたり、タコの料理をしようとしたり、歌を歌い、踊り、墓を掘り、教会の燭台を盗み、
教会で懺悔と奉仕の日々と、もう大活躍。
上五島 (中通島)
寅とポンシュウは一人の老婆と縁ができる。それが若菜さんのおばあちゃん。
ポンシュウ「もったいないことしちゃった
焼酎一気飲みしちゃった」
ポンシュウ「板前の修業したことあるんだよ」
そして夜、
若菜さんのおばあちゃんの家で
あの何とも不思議なポンシュウの歌と踊りが始まるのである。
おばあちゃんにとっては生涯の最後の夜であり最後の宴。
このポンシュウの踊る影に神様の気配を見たのは私だけではないだろう。
ポンシュウ「♪あ、それェ、あ、それェ!
杯に映る明りを
飲み干して、
今宵も歌おうよ
我が友よ〜
楽し さわぐ酒の中から
浮いてくるくる
酒の中から
どんとどんとどんと!♪
杯に映る明りを、飲〜み干してェ〜
このポンシュウの歌と踊りには『白魔術』の気が間違いなく入っていた。
見る者聴く者の心を解きほぐしてくれる力があった。
おばあさんに対しての最後の日のはなむけのために神様がポンシュウの姿を
借りて歌い踊ってくれたのだ。
ポンシュウはあの踊りの時神聖な神様だった。嘘のような本当の話。
「寅さん、じゃったね…。
あなたにも神様のお恵みがありますように…」
その深夜 おばあさんは寅に見取られながらロザリオを握り締め天国に召された。
そして、翌日おばあさんの墓を掘ってやるポンシュウと寅。
久しぶりの汗を流した肉体労働のあと
おにぎりを美味そうに食べる二人。
ポンシュウ「うめえなあ!」
寅「働いた後だからな。
労働者ってのは毎日美味い飯食ってるのかもしれねえな」
ポンシュウ「そうだな」
久しぶりに充実した日々を送る寅とポンシュウ。
しかしそのあとが悪かった。
宿で若菜ちゃんのことをめぐって大喧嘩。
ポンシュウ「しかしいい女だったな〜 あの孫娘。
喪服着た女ってのはたまらねえな。なあ寅」
寅「…。オレはおめえと一緒の旅はやめてえな」
ポンシュウ「あ〜??」
寅「仮にだ、おまえが死んで葬式の時、
お前の娘が喪服を着てボロボロ泣いてるのを、
どっかの助べえ野郎が『いい女だなあ』
そう言ったら、棺桶の中にいるおめえは腹が
たたねえのか?
ポンシュウ「へへへ、そんなたまじゃねえや。
オレが死んだって涙なんか流すもんか
あのバカ娘は!」
(ポンシュウに娘がいたことがわかる!)
タオルを投げつける寅
ポンシュウ「な、なにすんだよ!」
寅「親の死を悲しまねえ娘がどこの世界にいるんだ!
てめえそんなこと言ってるとバチが当たるぞ!」
ポンシュウ「へ、偉そうな口ききやがって、悔しかったら
娘持ってみろ!なんだい、女房も持てねえくせによ!」
寅「それを言っちゃおしめえよ!てめえの面は二度と見ねえ!」
と宿を出ていく。
ポンシュウも怒って階段を下りていった寅に
ポンシュウ「おめえまたあの娘に惚れたのか!
いい年こきやがって!へッヘェー!!」
そして物語は起承転結し、ラストシーン。
上五島 青砂ケ浦教会
そして寅はラストで、もう一度懐かしきあの上五島町奈摩郷小字青砂ケ浦
の小高い丘を切り開き、奈摩湾に臨んでそそり立つ煉瓦造りの青砂ケ浦教会を訪れる。
ここは若菜さんのおばあさんのお葬式が行われた場所だ。
神父さん「ポンシュウさあ〜んお迎えが来ましたよ〜!」
寅「???」
へとへとに労働やつれしたポンシュウがなんと教会にまだいた。
ポンシュウ「寅!寅じゃねえか!」
寅「なにやってんだおまえ??」
ポンシュウ「聞いてくれよ」
ポンシュウ「墓掘ってからよ、全く運が落ちてよ、全然稼ぎにならねえんだ。
つい、でき心でこの教会忍び込んで銀の燭台盗んで、
御用なっちまったんだ」
寅「なんてことするんだこのバカ!」
ポンシュウ「警察にやってきたあの神父さん、なんて言ったと思う。
『この燭台はこの人が盗んだものではありません。
私が差し上げたものです』
それ聞いてよ、さすがのこのオレも心を入れ替えて
恩返しでここで働いているんだ。
それってユーゴーの「レ.ミゼラブル」のパクリだよ(^^;)
寅「…」
寅ポンシュウの耳をひっぱって
寅「こっちこい」
ポンシュウ「あたたた なにすんだい」
寅「神父様 ありがとうございます。
どうぞこの男を一生奴隷としてこき使ってやってください」
ポンシュウ「…!」
十字をきる寅
寅「ありがとうございます」
ポンシュウ「!!お、おい!それはないよおめえ、
いままで一生懸命務めてきたんだ。
このへんで帰してくれるようにおめえからも頼んでくれよ、な」
寅「ポンシュウさん...、」
ポンシュウ「え?」
寅「あなたにも神のお恵みがありますように。
さ や う な ら 」(^^;)
と、十字をきる寅
追いすがるポンシュウ。
ポンシュウ「冷たいこというなよ寅 頼むよ頼むよ!」
テーマ曲高鳴って
「終」
と、いうことで、第35作「寅次郎恋愛塾」は小粒だが、なかなか見所も多い楽しい作品だ。
2006年10月13日 真実一路の旅をゆく
いやはや、多忙な10日間だった。ほとんどパソコンの前に座れなかった。
とにかく仕事の全日程がようやく終わった。どの展覧会も最低予想を下回らなかったのが救い。
なんとか次の1年も生きてゆけそうだ。
明日富山を発ち、大阪の実家に向い、15日に関西空港からバンコクへ
向う。そして19日夜にバリに戻る。
ようやく今夜、「男たちの旅路」の2作目「路面電車」を書こうと思ったが、そろそろ寝なければ
ならない時間となった。「男たちの旅路」の続きはバリに戻ってから書きます。すみません。
明日は大阪に行く途中、滋賀に立ち寄り、「青山二郎展」を見に行く。昭和の最大の目利きである
青山二郎の全仕事が今回展示されている。こんな機会は滅多に無いであろう。行くしかない。
信楽のどえらく山深い中にあるMIHOミュージアムはたどり着くだけでもたいへんな道のり
なのである。だから明日は早朝に出なくては…。
ところで、次回BS2の「男はつらいよ」は確か第34作のはず。「寅次郎
真実一路」だ。
私はこの題名が好きである。牛久沼に住むスタンダード証券の富永課長の自宅に
泊まってしまった寅が、翌朝妻のふじ子さんとご対面するのだが、その時壁に
掛かっていたのが
真実諦めただひとり
真実一路の旅をゆく
真実一路の旅なれど
真実鈴ふり思ひだす
という北原白秋の「巡礼」の詩。
作家の山本有三が書いた「真実一路」にもこの白秋の詩は引用されているので
そちらのほうが一般的には有名かもしれない。
白秋もこの当時、道ならぬ恋で悩んでいたらしいから、この詩は寅のその後を暗示するようで、
とても興味深いものがある。人妻に恋をしてしまう寅は現代の「無法松」だ。「オレは汚ねえヤツです」は、
無法松そのもの。そしてしだいに失踪した亭主が帰ってこないことを密かに考えてしまう恐ろしい寅の心。
膨らんでしまったその闇の心を振り払うように旅に発つ寅。真実一路の旅。
不倫に陥ることなく、正に真実を貫くために熱き気持ちを奥に隠して、潔く孤独を行く寅の姿に、
見る側の私たちはどこかでほっとしたはずだ。
それにしてもこの物語の大原礼子さんにはぞっとさえするような大人の色気を感じる。
第22作「噂の寅次郎」ではまだ開花しきっていなかった美しい花がこの「真実一路」では
見事に花開き、私の心をクギ付けにさせてしまった。これは作品のよさとはまた、別の問題ではある(^^;)
あの声、あの瞳、あの立ち振る舞い。ほんと寅が道を踏み外す気持ちが分かるよ(^^;)
次回はバリに戻った10月20日過ぎに書きます。
2006年9月21日 警視庁捜査一課 今西刑事よ、永遠なれ
丹波哲郎さんが亡くなられた。ここ数年持病の心臓病があり、大変そうだったが、やはり…と言う感。
残念だ。そしてやっぱり淋しくてしかたがない。
山田洋次監督の「十五才.学校W」での「バイカルの鉄」は忘れがたいキャラクターだった。
「たそがれ清兵衛」でも清兵衛を叱咤する頑固伯父で、存在感のある演技をされていた。
それ以外で印象深いのは大河ドラマの「利家とまつ」だ。 佐々成政の重臣、
井口太郎左衛門で、なんとも渋く、メリハリのある演技が光り輝いておられた。
殿である成政に
「一寸先は闇、一寸先は光でございます」
と言った彼のセリフは今の私の座右の銘になっている。
まあ、私くらいの年齢の人々にとって丹波さんと言えばまず思い浮かぶのは
なんと言ってもテレビの超人気番組だった「Gメン75」なんだろうが、私にはやはり
映画「砂の器」の警視庁捜査一課の今西刑事だ。
何を隠そう、今までの人生の中で映画館まで足を運んで観た「邦画」の中で、最も観た回数が
多かったのがこの「砂の器」なのだ。封切り時、私はまだ中学生だったが、少ない小遣いを
はたいてこの「砂の器」を何度も見に行った。当時は家庭ビデオも何も無い頃で、
何度も見たければそれはもうリバイバルを探して遠くの映画館まで見に行くしかなかったのである。
中学生ごときであのようなシリアスな映画を見ている人はあまりいなかったが、私は我が道を行くで、
ちょっとかんばって一人で観に行った。高校生になっても幸いこの映画は根強い人気が続き、
ちょくちょく名画座などで放映してくれたお陰で合計10回以上は映画館で観たと思う。
映画館で上映していない時はサントラ盤のLPレコードを聴いていた。そのレコードには役者さんたちの
セリフもかなり入ってあったので少しは臨場感が味わえたのである。
橋本、野村コンビによる力強い構成力、粘り強く組まれた緻密さ、そして映画独特のダイナミックな広がり…。
映画というものの面白みを全部見せてくれた映画で、スタッフたちとキャストたちの過剰気味(^^;)
ともいえるあの熱気が、観ている私にもグイグイ迫ってきて何度観ても圧倒される奥が深い映画だった。
日本映画もタイミングが合うとこんなにも大きな広がりのある映画ができるのかと当時も子供ながらに
驚嘆していた。
それにしても、暑い中、東北を捜査しながらさりげなくできたての俳句をメモに書いている丹波さんは
実直でちょっと涼やかで、素敵な存在だった。
『 北の旅 海 藍色に 夏盛り 』
この映画は脚本家橋本忍さんの一生一品。
野村芳太郎監督の一生一品。
本浦千代吉役をされた加藤嘉さんの一生一品。
丹波哲郎さんの一生一品。
音楽家芥川也寸志さんの一生一品。
子役だった春田和秀さんの一生一品でもあろう。
そして出番は少ないが緒方拳さんが人のいい三木巡査を見事に演じていた。
緒方拳さんの味わいのある独自の輝きを最初に見たのがこの映画だった。
この映画の後半、千代吉、英夫の放浪シーンは美しく切なくそして悲しく見る私たちの胸に迫ってくる。
私はこの本浦千代吉英夫父子が、雨が降り、凍えるような寒さの夕暮れ、火を焚いてお粥をふたりで
すすっているシーンが忘れられない。英夫は千代吉にお粥をはやく食べたいとねだる。その姿に
父親は息子が可愛くて思いっきり抱きしめてしまうのである。
ラスト近く、
名曲「宿命」とシンクロしながら映し出される千代吉の姿。そして英夫の写真を見て震え、絶叫するのだ。
この時の加藤嘉さんと丹波さんのやり取りは、この後私たちの間で何百年も語り継がれていくであろう
歴史的な名シーンだ。
ラスト
吉村刑事「今西さん…、和賀は、父親に会いたかったんでしょうね」
今西刑事「そんなことは決まっとる!今、彼は父親に会っている。
彼にはもう、音楽…、音楽の中でしか父親に会えないのだ」
なんとも悲しい真実の言葉だった。
ちなみに、当時まだ若かった山田洋次監督も
橋本忍さんのアシスタントとして脚本にその名を連ねている。
あの映画の中、警視庁捜査一課の課長役の内藤武敏さんが会議の中で
「順風満帆(じゅんぷうまんぱん)」を「じゅんぷうまんぽ」と間違って言っているにもかかわらず、
なぜかNGにならずにそのまま映画の中で使われているので、当時の私はすっかり
「じゅんぷうまんぽ」だと思い、それから何年も間違いに気づくことがなくその後高校でも
何度か間違ったまま使った覚えがある。思いこみというものは恐ろしく、…恥ずかしい(^^;)
内藤武敏さんは、私が好きな画家である「鴨居玲」の絵を何枚か持っておられる。
鴨居玲好きなのだ。…ということで、あのことは、まあ、水に流しましょう(^^;)
そしてあの映画では「男はつらいよ」のキャストの人たちも当然何人も出られていた。
渥美さんも伊勢の映画館のオヤジ役で丹波さんとちょいとからんでいる。
笠さんや春川ますみさんも事件を解決する重要な証言をされていた。
タコ社長の奥さん役の水木涼子さんなどもちょい役で加籐嘉さんたちとからんでいた。
渥美さんがスクリーンにちょろっと出てきただけで映画館の中がパッと華やいだ雰囲気にいつも
なるのが嬉しくて楽しくてしかたなかったことを覚えている。
私はあの今西刑事さんの、ある種の「節度と礼儀」というものがしみじみ好きだった。
そしてあの「地道な粘り」に憧れていた。
彼は当時の日本人の美しさを確かに持っていた。
あのような人柄になりたいと映画を観るたびに思いつづけていたものだった。
警視庁捜査一課 今西刑事よ、永遠なれ。
謹んでご冥福をお祈りいたします。
2006年9月21日 「二十四の瞳」と「二十三半の瞳」
今回の日本滞在はいつにもなく多忙で、参っているが、それでもなんとか時間を
作ってDVDを深夜に見ている。木下恵介監督の作品をいろいろ見ていたが、
やはり「二十四の瞳」はすばらしい。
あんなに小豆島を美しく撮った人はいないし、あんなに子供たちの表情を美しく撮った
人もいない。そしてあんなに美しい高峰秀子さんもめったにいるもんじゃない。
高峰j秀子さんさんといえば成瀬監督の「浮雲」がダントツ魅惑的だが、
この映画の快活な大石先生もなかなかどうしてとてもチャーミングである。
そういえば、山田監督はこの「二十四の瞳」のラストに演出された同窓会
のカットをそのまんま第36作「柴又より愛をこめて」に使っている。
同窓会でのプレゼントの自転車も「ななつの子」の合唱もそのままだった。
山田監督はあの映画が好きなんだね。
まあもっとも「柴又より愛をこめて」の生徒たちは11人なので「二十二の瞳」。
あの時は途中で知り合った寅も入れてやっとこさ「二十四の瞳」になったわけだ。
寅「あーそうかこれでオレ一人が入ると二十四の瞳になるわけだ。
でもちょっと目がちっちゃいから二十三半ってとこだな」
みんな大爆笑。
それにしても映画「二十四の瞳」に出てくる贈り物の「自転車」は素晴らしい
存在感を醸し出していた。あんな自転車今日本のどこを探してもないだろう。
古いという意味ではない。物としてとてもいいのだ。
「柴又より愛をこめて」のスマートで軽そうな自転車と比べた時に、
日本はいい意味でも悪い意味でもこのように変わったのだとしみじみ思ってしまった。
「柴又より愛をこめて」の自転車
「柴又より愛をこめて」では当然ながら小学校の卒業生はみな健康で全員島へ
同窓会のために戻ってきていた。しかし「二十四の瞳」では貧困や戦争でたくさんの
教え子が若くして死んでしまうのである。男の子は大部分が戦死。生き残って帰ってきた子も
目が見えない…。そして戦後の苦しい日々。
戦後まもなく、生き続けること自体が大変だが、それでも仕事にリアリテイを持ちながら
物作りができた時代の職人さんによって作られた自転車が、それから30年経って、
衣食住が満ち足り、物が大量生産されている時代の自転車より存在感があるのは
考えてみれば当然なのである。
私が16年間住んでいるバリ島では今でも40年くらい前の自転車を直し直し乗っている
凄まじいおじいさんたちがかなり多いが、それがまた譲ってほしいくらいのいい味が出た
ヨダレもん黒光り自転車なのだ。手作りの良さと使いこんだ良さと、なによりも手入れの
良さが光る骨董のような姿かたちなのだ。最後はこの「手入れ」のクオリティでものが決まる。
心は物に宿る。
乗り物の中でも自転車は人間に近い。だからこそ独特の魅力を感じてしまうのだろう。
「二十四の瞳の」あの黒い自転車の存在感とあの映画の存在感はやはり繋がっているのだ。
「二十四の瞳」の自転車
2006年9月3日 八尾諏訪町通りを行く町流し
風の盆は町流しがいい。夕方にも流すし、真夜中にも流す。夜明け前も。大勢でも流すしたった一人でも流す。
私の住んでいる上新町から徒歩一分のすぐ隣町が石畳の諏訪町。日本の道100選の道がある。
この諏訪町を流す光景はなかなかのものがある。即興で油彩を仕上げてみた。
今回の風の盆では絵を結構買っていただいた。
諏訪町通りを行く町流し ー 越中八尾風の盆 ー 2006年 F4号 油彩
2006年8月30日 『風の盆』の季節がやってきた。
今年も私の自宅がある越中八尾町で9月1日から3日まで風の盆が行われる。もう前夜祭は当の昔に始まっていて、
今年もいろいろ取材した。本番は混むので取材どころではなくなってきている。で、前夜祭にスケッチや油彩を何枚も制作。
今年も自宅で展覧会を開催する。幸い雨が余り降らないのでどの町(11の旧町)も順調に前夜祭を成功させている。
で、私も順調に制作を続けてさせてもらっている。絵の質のほうは時間がたたないと冷静になれないが、まあいいほうかな。
今年は例年になくどの町も準備に気合が入っているように見える。9月1日、2日、3日の本番が今年は週末に当たっている
せいだろうか。
すでに2ヵ所展覧会が終わった。2ヵ所とも例年通りの成績。いや、昨年よりちょっとよかったかな。
編笠を背中にかける少女たち 2006年 P4号 油彩
2006年8月22日 井上堯之さんという存在 「カーテンコール」
映画というものはまず、原作や脚本があり、演出があり、そしてキャストたちの
演技がある。しかし時として、その中のたったひとりの演技が平凡な映画に品格を与えることがある。
昨日見た佐々部清監督の映画「カーテンコール」もそのような映画だった。
時代設定やねらいは「ALWAYS 三丁目の夕日」に似ている。しかし「三丁目の夕日」の方が
構成力、物語の簡潔さ、力強さ、広がり(スケール)、エンターテイメント性などが秀でていた。
ただ、このカーテンコールの主人公安川修平(昭和の映画全盛の時代に映画と映画の幕間芸人として生きた人)の
晩年の役の方がただものじゃない存在感だった。いかにもという感じの説明的な存在感ではなく、実にひょうひょうとして
いるのである。実はこの方は役者さんではなかった。あの、もとスパイダースのメンバーであり、井上堯之バンドのリーダーの
井上堯之さんだった。
まあ、はっきり言って役者としては彼はほとんど素人だろう。彼の出番は最後の方。つまりさほど多くない。しかしその全てにおいて
なんともいえない柔らかな表情が漂い、あの独特の歌声で「いつでも夢を」を歌われた。
私は実はなんの予備知識もなかったので、最初この老人がどなたか分からなかった。どこかで見たことのある顔なのだが、
こんな柔らかな表情が出せる役者は誰なのだ?イメージを温める時間の許されない今の日本の役者さんにはこんな表情の
方など渥美さんや笠さん、宇野さん亡き後もうどなたもいないし、存在の基盤すらないはずだが…、と驚愕しながらも、誰かは
思い出せないままだった。それで見終わった後気になったので調べてみると、あの音楽家の井上堯之さんだったのだ。
以前から書いているように、役者として素人だからというだけでいい演技ができるほどこの世界は絶対甘くはない。
しかし、役者ばかりやってきたからといっていい演技ができるほどやはりこの世界は同じく甘くはないのである。
これは芸の世界全てにあてはまる恐さなのである。
渥美さんを、そして笠さんを見れば分かる。あれが役者だ。
つまり、役者は膨大な日々の生き様が、そして隠された日常が露出してしまう恐ろしい職業なのだ。
私は井上堯之さんのここ20数年を全く何も知らないが、彼の日々の活動の中でギターや歌が彼自身の心を
洗い続けていたことは間違いない。そうでないとああいう表情や歌声は絶対に出せない。
私は残念ながら井上さんがこの映画によってどれくらい評価されたかは全く知らない。だいたいこの映画自体が説明的な部分や
消化不良な部分、構成的に弱い部分が目立つゆえに映画自体の評判が悪そうだ。ましてや井上さんは出番が少ないので、
『あの人いい味出してたね』程度で終わっている気もする。しかし、一方で密かに私と同じようにラストの彼のなんともいえない
穏やかな表情に心を打たれた方は実は多いのではないだろうか。
藤村志保さんの落ちついた温かみのある演技や鶴田真由さんのラストの迫真の演技はとても光り、これらも心に残ったが、
やはりそれらはギリギリでは所詮は私の予想や過去のデータ―の範ちゅうにあるものなのだ。
しかし、井上堯之さんのラストの「姿」には参った。それこそ心を揺さぶられた。
鶴田さん扮するみさとさんと30年ぶりに再会した時の井上さんのあの表情は演技どうこうでなく井上堯之さんの人生が出ていたと思う。
この映画の陰のテーマであり、実はこれこそが本当のテーマであるところの「宿命としての親子の情愛」の表現に成功したとするならば、
ラストの井上さんの表情が全てだったといってもいい。
その昔山田太一さん脚本、笠さん主演のテレビドラマ「今朝の秋」で、ラストに蓼科で杉村春子さんを見送る笠さんの表情は絶品で、
あれが日本の俳優さんが成しうる最後の到達点だと確信したことを今思い出していた。
これだから芸術は怖いのだ。演技をする前からすでに勝負はついているのだから。
歌うたいも絵描きも歌う前に描く前に勝負はほぼついているのだ。人生はどこまでも厳しく正直だ。
博士
2006年8月11日 快適な暑い日本に降り立つ ― 『博士の愛した数式』 覚え書き ―
8月5日に関西空港に降り立った。外に出るとモワッと熱風が吹いていた。35度くらいはあったと思う。
あとで聞くところによるとここ1週間は天候が不順だったのだが4日あたりから急に暑くなったそうだ。そういえば、みんな
喘ぐように息をしていた。私は平気である。建物の中でエアコンなどが効いていると、すぐに長袖を着る。暑いのは苦ではない。
つい先日まで、肌寒いバリ島にいたのだ。何度でもどんとこいという気分だ。もちろんエアコンは私のアトリエがある富山の自宅には
ない。扇風機はあるがほとんどつけない。どんなことがあっても肌寒いよりマシである。
仕事の合間をぬって昨年同様深夜は新作のレンタルDVD三昧である。で、その中で『ALWAYS.三丁目の夕日』はなかなか
作りが丁寧で気持ちがたっぷり入った佳作だった。見て良かった。そしてもうひとつすがすがしい静かな感動に包まれたのが
『博士の愛した数式』だった。
これは『美しい映画』だった。美しく見せようとしている映画は古今東西今もごまんとあるが、美しい映画はほとんどない。
以前『阿弥陀堂だより』を見た時もこの種の感慨があった。繰り返し見るに値する作品とはこのようなものなのだ。私は一発で虜に
なってしまった。
そして原作をすぐ買って読んだ。
無駄のない構成、省略の妙、日本語を知り尽くした自信に満ちた、しかしとても謙虚な文章。綴られた言葉はどれも美しいとしか言いようの
ない。その原作の清澄な香りを見事に映像化することに成功した小泉監督とその仲間たちの鋭敏な感覚に今回も脱帽。
こんなにも物語を読み進めることが楽しかったことはここ数年なかったし、こんなにも映画が終わってしまうのが切なかったことも
ここ数年なかった。3年ほど前に見た『裸の島』以来だ。『博士の愛した数式』は『珠玉』という言葉がぴったりな「宝物」がたっぷり入った
小説であり、映画だった。
この作者さんの小川洋子さんは、山下和美さんのマンガ『天才柳沢教授の生活』を読んでいたのかもしれない。
昔からの『天才柳沢教授の生活』の熱烈なファンである私にとって、この『博士の愛した数式』の博士には柳沢教授とだぶるものを直感した。
小川さんはなんて言うか分からないが、実際影響を強く受けていることは間違いないだろう。
映画のキャストではなんといっても深津絵里さんがなんとも素敵だった。素直さと謙虚さ、絶え間ない好奇心の発露が時に淡く、
時に大きく輝いていた。これは間違いなく彼女の当たり役だとこれまた直感できた。彼女は役に出会った目をしていた。
吉岡秀隆さんや寺尾聡さんはさすがに自分の持ち味を十二分に出し切っていた。それにしても浅丘ルリ子さんの存在感は並外れていて
美しい着物姿がゾクゾクするほど艶やかだった。なによりもセリフを発するあの口跡がすばらしい。そしてなによりもあの『姿』。あれが役者だ。
彼女があの物語の要をしっかり支えていたのは言うまでもない。浅丘さんのような役者さんは滅多にいないだろう。
音楽の加古隆さんの気品のある曲、そしてソプラノを聞かせる森麻季さんの声。これらも見事にはまっていた。
それにしても小泉堯史監督の波長と私の波長は合うのだ。『阿弥陀堂だより』はもうそれこそ何十回と見ている。
この『博士の愛した数式』ももちろんすぐDVDを購入した。
下に物語の覚え書きをちょろちょろっと記します。
時に小説、時に映画と混ざり合い、私にとってのひとつの大きなイメージを狙いたい。
博士の愛した数式
小説and映画混ぜこぜ 抽象的覚え書きノート(イメージ)
あくまでもイメージ重視(抽象)ノートなので物語があちこち飛ぶことをご了承下さい。
信州在住(小説では瀬戸内)の派遣家政婦でありシングルマザーである「私」と、彼女の10歳になる息子「ルート」、
そして派遣先である母屋の離れに住んでいる初老の「博士」の三人によって密かに築きあげられていった日々の
静かな営みとその心の襞を丁寧にそして謙虚に四季折々の風景の中で写しだし、紡ぎだした真実の記録が
この小説であり、この映画だ。
「博士」はイギリスのケンブリッジ大学の博士号をとったほどのすぐれた数論専門の大学教授であったが、47歳の時、未亡人である
兄嫁との密会の旅の最中に巻き込まれた交通事故で脳(おそらく海馬)に損傷を受け、それ以来、80分しか記憶を保つことができなく
なってしまっていた。そのため、博士を相手にする者は何度も同じことを繰り返し説明しなければならず、また何度も博士から
同じようなことを聞かなければならない羽目に陥ってしまうのだった。しかし彼は1975年までの記憶は全く侵されていない。
そして、それゆえ彼の古い記憶は常に1975年で止まったままだ。
小説では、全体の語りは、家政婦である『私』に委ねられている。
しかし、映画では、博士に親愛を込めて√(ルート)と名づけられた10歳の少年が、数学の教師となり、
ある年の新学期の教室で、自己紹介ということで、博士との不思議な出会いと体験したできごとを「数学概念」の
説明とともに、生徒に優しく語り始めるという設定になっている。
素数を愛した人
ところで
博士は初対面の人(80分を過ぎればみんなリセット。よっていつも初対面)に対し、その不安からくる緊張を避けるために
自分のためにも相手のためにもさまざまな
数字の話を必ずするのだ。
博士「君の靴のサイズはいくつかね」
私「
24です」
博士「ほう、実に
潔い数字だ。
4の
階乗だ」
博士「君の電話番号は何番かね」
私「576の1455です」
博士「
576万1455だって?
素晴らしいじゃないか、一億までの間に存在する
素数の数に等しいとは」
授業中のルート
ルート「
素数の『素』は素直。何もくわえない本来の自分と言う意味。この素数は夜空に光る
星のように無数に存在します。現れ方はいかなる法則にもあてはまらない。私はここ。独立自尊。
なんとも潔く妥協せず孤高を守り通している数字。
博士がこの世で最も愛した数字。それが『素数』です」
博士「
誰よりも早く真実に到達するのは大事だが、それよりも証明が美しくなければ台無しだ。
ほんとうに正しい証明は一部のスキもない完全な強さとしなやかさが矛盾せず調和して
いるものなんだ。何故星が美しいのか誰も証明できないのと同じように、数学の美しさを
証明するのも困難なんだ。
博士「
直感は大事だ。素直に直感で数字を掴むんだよ」
博士 「
284の
約数の和は
220。
220の
約数の和は
284。…
友愛数だ。
私「
友愛数?」
博士「
神のはからいを受けた、絆で結ばれた数字なんだ」
博士「
美しいと思わないかい?君の誕生日と僕の手首に刻まれた数字が、これほど見事なチェ―ンで
繋がっているなんて」
博士「子供の頃からタイガース」
私「私も息子も大の阪神タイガースのファンなんです」(偉い!)
彼が大好きな
江夏豊の背番号は28
28は
完全数だ。
博士が忘れないために袖にくっつけている
新しい家政婦さんの似顔絵は最高だった。
なぜか似ている。原作ではもっとへたくそな絵ということになっていた(^^;)
子役のルート(√)少年は幼き日の吉岡秀隆君そっくり(^^)
博士は彼に『
ルート』と名づける。(頭が平たいので)
博士「
これはなかなか賢い心が詰まっていそうだ。いいかい、君はルートだ。
どんな数字も嫌がらずに自分の中にかくまってやる。実に寛大な記号ルートだよ」
これらの言葉は当然毎回繰り返されることになる。
寂しい心が支配し、博士がその昔書いた手紙を読む未亡人である兄嫁
博士の文字
『
子供たちの元気に遊ぶ姿を見るにつけ古い歌を思い出します。
人の子の遊ぶをみればにはたづみ
流るる涙とどめかねつも
僕の心は
eのπi乗=−1です。
この数式が永遠に−1であるように宿した命の一滴を
を取り戻すことはできないでしょう。
道を踏みはずした二人に、もう手を取る友達はありません。
不幸を共に悲しむ。そうありたいと願っています。
愛するN へ』
『私』と博士のはじめての散歩
博士「「
数学に最も近い仕事は農業だよ。
土地を選び、耕し、種を蒔いて育てる。
数学者もフイールドを選び、種を蒔けば、あとは一生懸命育てるだけ、
大きくなる力は種の方にあるんだよ」
ルートと博士の会話
博士「
いいかい、問題にはリズムがあるからね。口に出してそのリズムに乗っかれば
問題の全体を眺めることができるし、落とし穴が隠れていそうな怪しい場所の
見当がつくようになる」
ルートの授業
ルート「
いつ、どんな場合でも博士が求める物は正解だけではありませんでした。
博士はどんな愚かな袋小路に落ちこんでしまっても、必ず何かいいところを見つけだし、
そして誇りを与えてくれた」
ある日『私』は28の約数を全て足すと28になることを発見し、博士に言ってみる。
私「あのー、私の発見についてお話しても構わないでしょうか」
博士「…」
私「
28の約数を足すと28になるんです」
博士「ほう、
完全数だ」
私「完全数?」
博士「完全の意味を真に体現する貴重な数字だよ。デカルトはね、完全な人間がめったにいないように完全な数も
また稀だ、と、言っている。この数千年の間に見つかった完全数の数は30個にも満たないんだよ」
私「たった30個ですか」
博士「うん。
完全数28は阪神タイガース江夏豊の背番号なんだ」
ルートの授業
ルート「この完全数の性質をもうひとつ示してみる。完全数はね、
連続した自然数の和だけで表すことが出きるんだ。
28=1+2+3+4+5+6+7
この完全数は今でも神秘のベールに包まれている。
究極のバランスを身につけた美しい数だ。
博士とルートが滝のそばで会話
ルート「じゃあこの葉っぱも1でしょう」
博士「そう、その葉っぱだって1枚だ。あの、葉っぱがたくさん集まっている杉の木だって1本だ」
博士「
全体が一つで枯葉なんだ。ルートも全体で1。一つの中に全体が調和していて美しい。
良いこととはそういうことなんだよ」
私「
永遠の真実は目に見えない。心で見るんだって…」
台所
私「あのー、何かご用でしょうか」
博士「君が料理を作っている姿が好きなんだ」
博士「なぜそうやって肉の位置をずらす必要があるのだろう」
私「フライパンの真中とはじのほうでは焼け具合が違いますからね。均一に焼くためにこうやって時々場所を
入れかえるんです」
博士
「なるほど、一番言い場所をひとりじめしないよう、みんなで譲り合うわけか…。
あー…なんて静かなんだろう」
小説でも映画でも博士の心が感動し、高揚した時彼は必ず「なんて静かなんだろう」と呟くのである。
博士を今も愛する兄嫁
そして1975年、二人で見た薪能の夜で記憶が止まっている博士。